約束のパスタ

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約束のパスタ

 「じゃあ、また!元気でね!」 私たちは笑顔で手を振って別れた。 涙なんて、絶対に見せるつもりはなかった。 あくまでもすがすがしく、明るく別れよう、それが私たちの約束だった。 二人とも、その約束を守った。 二人とも、笑っていた。笑顔だった。 すがすがしい、笑顔だった。 辺りは、三月の陽気とまだ少し寒さを残した風が入り混じっていた。 まるで、私たちの心のようだった。 さみしい気持ちと、少しの期待と。 しかし、この三月は確実に暖かさに向かっている。 それは誰もが知っている。 嫌だ、と言ったとしても、もうすぐ暖かい春は来る。 絶対に春は来る。 まるで、私たちの未来のようだ。 未来は暖かい幸福に満ちているだろう。  その春は青い芽達が一斉に顔を出した。 なんの恐れも知らずに、勢いよく伸びてゆく若葉たち。 そんな印象的な季節だった。 私たち二人は大学時代のバイト先で知り合った。 すぐに意気投合し、頻繁にやり取りをするようになった。 初めて二人で食事に出かけたイタリアンレストラン、”メロディー”。 一人前1500円ほどの、当時の私たちにとっては少しだけ高級な、ホウレンソウと鶏肉のクリームパスタ。 一口食べて二人とも気に入った。 味覚も似ていると嬉しくなったのを覚えている。 その時の私たちのもっぱらの話題は、気になる男子の話。 「あの男子はかっこいいけれど、誰にでも気を持たせるようなことを言うからイヤになっちゃう。」 「こっちの気になる男子は、まったく何を考えているのか分からないよ。もう。」 話題は尽きず、何時間でも話していられた。 そして、たびたび”メロディー”に通うようになった。 私たちは青春の真っただ中にいた。 そして、その頃の私たちはまだ幼く、ただ一瞬一瞬を全力で過ごしていた。  数年後の春、私たちは大学を卒業し、新社会人となった。 春特有のうっとうしさというものが、だんだんと分かる年頃になってきた。 何もかもが新しい春は、良いことばかりではない、そんなことを考えていた。 ある意味で、大人になった証拠かもしれない。 私たちは、イタリアンレストラン、”メロディー”で、久々におしゃべりに花を咲かせていた。 忙しい仕事の合間を縫って、何とか時間を見つけた。 二人とも、今日もホウレンソウと鶏肉のクリームパスタ。 デザートでジェラートも付けようかしら、今はそんな話になった。 話題は付き合っている彼氏の話。 「彼ったら、昨日も会社の飲み会で遅くて、電話に出てくれなかったの。」 「大丈夫?心配になるよね。そういう時。」 相変わらず話は尽きなかった。 学生の頃のように頻繁に会えるわけではないが、私たちの仲は変わらなかった。 やはり、大親友同士だった。 唐突に、こんな話になった。 「ねえ、結婚とか考えている?」 「うーん、いつかはね。いまは仕事を頑張りたいから、考えられないな。どうしたの?」 「そっか。実はね、私、彼氏から結婚の話を少しだけされたの。まだすぐの話ではないけど、そのうちね、って。」 「そうなの!?結婚かあ…。もうそんな歳になったんだね。」 「うん。あなたは?仕事はどんな感じなの?」 「私はまだ新入社員だけど、海外のプロジェクトに興味があって。何年か経ったらそのプロジェクトに関わりたいと思って、英語を勉強しているところ。」 「そっか、すごいね。いろいろ、夢が広がるね!」 春はちょっぴり大人になった私たちを素直にする。 そして、”メロディー”のクリームパスタもいつも私たちを素直にする。 それ以外の時でもいつも本音で話してはいるのだけれども。 私たちは昔よりもある意味での自由と独立を手に入れているはずである。 しかし、私たちは女として、課題に立ち向かわなければならない。 そんな時が多くの女性にやってくるのだ。 女として、悩みながら、ある意味で喜びながら、その課題に向き合っていかなければならない。 それが多くの女性に課せられた、生まれながらの宿命である。 私たちは、そんな、”らしい”試練の中を進もうとしていた。 女性らしい、その試練の中を。 三年後の春。 春は特別な季節ではなくなった。 色々なことが変化するだけで、もはやそれ以上でもそれ以下でもなかった。 私たちは、今日も”メロディー”にいた。 突然友人に呼び出されて。 私たちは二十五歳になった。 知り合ってから、何年も経った。 それでも、どこから出てくるのか、と思う程に話題は尽きなかった。 唐突に、私の一の友が口を開いた。 「ねえ、一番最初にあなたに伝えたいことがあるの。あのね、私、結婚することになった!」 私は驚いた。とても驚いた。一瞬固まった後、自然と言葉が漏れた。 「おめでとう…。おめでとう!本当に良かったね!」 私は驚きとうれしさで涙が出そうになったのをこらえた。 「ありがとう。あなたに、一番最初に伝えたかったの。」 「教えてくれて、ありがとう。私まで嬉しくて、涙が出そう…。」 友人はふふふっ、と笑った。 今までで一番幸せそうな笑顔を見た。 それは周りの人を、否応なしに幸せにする類の笑顔だった。 私も幸せな気分になった。 「でもね、私、プロポーズされてからずっと悩んでたの。あなたみたいに海外に行ってまで頑張りたいほどの情熱はないけど、仕事は大切だし。大学まで出してもらって、自分のやりたい仕事をしていたからね。婚約者は転勤族だから、今の仕事は続けられない。色々環境も変わるし、一生を左右することだし…。でもね、私、決断したの。やっぱり、仕事を辞めてでも、この人についていこう、って。いつか、この人の子供を産んで、二人で育てて、夕飯作りながら帰りを待ってよう、って。それが、私にとっての一番の幸せだな、って気づいたの。」 友人の目は、穏やかに決意を物語っていた。 「私が仕事を辞めることを、もったいないって言う人もいる。でも、私にとっては、そんなことちっと気にならない。やっぱり、職業人生を諦めてでも、好きな人と一緒にいたかったの。それが、私の喜び。」 「そっか…。」 私には友人の決断を全面的に応援すること以外考えられなかった。 そして、私は誰よりも幸せになる友人を祝福し、誰よりも喜びたかった。 実際にそうした。いや、自然とそうなった。 「来年の春に入籍することになったよ。それからは夫と一緒に、遠くへ行くことになっちゃった。さみしいね。」 私はここで初めて、結婚なんてしないで!と心の中で叫びそうになった。 私を置いていかないで! だって、さみしいじゃない。 しかし言葉には出来なかった。 ありきたりの言葉だが、彼女には誰よりも幸せになってほしい。 少しでも彼女を惑わせるようなことは言わない決断を一瞬で行った。 しかし、私の目からは自然と涙が流れた。 それは、自分の意志ではどうしようもできない現象だった。 そして、友人も少し泣いていた。 私たちはいつもの”メロディ―”で、少し泣いた。 翌年の春。厳密にいえば三月。 この春は私たちにとって久々に新しさを感じる春だった。 少しの高揚感と期待と、少しの不安とさみしさと。 友人が旅立つ日がやってきた。 おめでとう、結婚。 私たちはやはり”メロディー”にいた。 友人にとってはこれが旅立つ前最後のクリームパスタである。 次にこのパスタを二人で食べるのはいつになるのか。 私たちは相変わらず、どこまでも話し続けられる勢いだった。 しかし、私たちは他愛もない話しを繰り返すばかりで、結婚して遠くに行ってしまうことにはまったく触れなかった。 そこに触れたらさみしくなるから。 一時間半以上話した時、友人のスマートフォンが鳴った。 「夫が迎えに来るみたい。空港に行くね。」 「分かったよ。気を付けて。元気でね。」 『また、いつか、このパスタを一緒に食べよう』 私たちは誓った。 私たちは笑顔で手を振って別れた。 涙なんて、絶対に見せるつもりはなかった。 あくまでもすがすがしく、明るく別れよう。 二人とも、笑っていた。 絶対に春は来る。 まるで、私たちの未来のようだ。 未来は暖かい幸福に満ちているだろう。 春はやっぱり悪い季節ではない。 私はやっぱり春が好きだ。 私たちが”メロディー”を出るとき、店内ではショパンの『別れの曲』が流れていた。 それは、いつまでも耳に残る、忘れがたい”メロディー”だった。
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