赤とんぼの伝言

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赤とんぼの伝言

山深いこの集落に今年も赤とんぼが帰ってきた。 賢三郎(けんざぶろう)は玄関横を通り抜け庭先に入る。 「武爺(たけじい)、体育館に避難してくれよ」 武爺(たけじい)と呼ばれたこの家の主人(あるじ)はその表情にありありと「また来たのか」という心の内を浮かべながら、炬燵(こたつ)越しにテレビへと視線を戻した。 「ほら、避難しろって、テレビでも何度も言ってるだろ」 賢三郎(けんざぶろう)はやれやれと思いながら、一向に片付かない居間を眺めながら、今日、何度目かの同じ台詞(せりふ)を口にしていた。 「大袈裟なんだよ、まったく。先月だってこの辺は大丈夫だったじゃねえか」 テレビを眺めながらも、幼い頃から知る近所のこの若者に向かって武爺は呟いているように見える。 「今回は数十年に一度の大きな台風だって言ってるだろ」 「だからそれが大袈裟だって言うんだよ。底冷えの堅い板間の体育館じゃ、むしろこっちの身体(からだ)を悪くしちゃうってもんだ」 「目の前の川から水が出たら、もう逃げられないんだぞ」 このやりとりを朝から何度も繰り返してきたというのか。 「夜中にこの辺りを台風が通るんだぞ、真っ暗でどうしようもなくなるだろ」 先月の体育館での苦い経験を思い出して武爺(たけじい)も次第に苛立ち始めた。 「うるせーよ、ワシらの先祖は武家の身だぞ。逃げたけりゃ、一人で逃げれば良いだろう。この臆病者が」 武爺(たけじい)炬燵(こたつ)から腰を持ち上げ、廊下の先の便所に向かいながら大声をあげた。 頭をくるくると傾げながら庭先の枝に赤とんぼが(たたず)んでいる。 赤みが染まり始めた空の下で、賢三郎(けんざぶろう)はやり場の無い悔しさを()み締め、作業着の胸のポケットを硬く握りしめた。 「他の家も回らなきゃなんないから、じゃあ行くわ」 賢三郎(けんざぶろう)は誰もいない居間に声だけを残して、大股で庭先から通りに停めてある車へと出て行った。 先月の台風の避難で被害がなかったこの集落の老人たちは、総じて積極的に体育館へ行きたがらなかった。 それでも賢三郎(けんざぶろう)は一人暮らしの老人の家を朝から回り、何とか体育館へと送り届けていた。 残るは武爺(たけじい)だけである。 そろそろ辺りも暗くなり始めている。 賢三郎(けんざぶろう)武爺(たけじい)の家の前に車を停めると、ドアを開ける前にひと呼吸をおいた。 作業着の胸のポケットに大切にしまっていた手紙を取り出して、車内の灯りの元で開く。 長らく入院をしていた末に去年の夏に病死した父親が残した手紙である。 三枚に分けられた便箋(びんせん)には家族のこと、先祖のこと、この集落のことがそれぞれ書かれていた。 すべてが厳格で几帳面な父親らしい文字で組み上げられている。 「賢三郎、先に書いた通り、当家は戦国の世に武人として生き、先祖代々、軍師の役を任じられ、この集落の人たちとともに時代を超えてきた。 もともと(いくさ)仲間であった集落の人たちを守ることこそが、先祖から続く当家の変わらぬ役割と心得よ。 臆病者と(ののし)られるは賢者の(あかし)。 常に最悪の事態を予測し行動せよ、それこそが当家に生まれた者の勤めである」 賢三郎はそこまで読むと車のエンジンを切り、力強い足取りで武爺(たけじい)対峙(たいじ)すべく庭先へと向かった。 今回もまた取り越し苦労に終わるかもしれない。 消極的な老人を体育館に閉じ込めることは可哀想な心持ちにもなる。 「また無駄足だった」と憎まれ口を受けるだろう。 しかし賢三郎(けんざぶろう)にはもう迷いはない。 「臆病者と(ののし)られるは賢者の(あかし)」 先祖から父親へと受け継がれたこの言葉が賢三郎(けんざぶろう)の迷いなど、大風の前に(しつら)えられた蝋燭(ろうそく)の火の如く消し去ってしまっている。 居間から(こぼ)れ出る灯りに照らされ、庭先の賢三郎(けんざぶろう)はキリリと武爺(たけじい)(にら)みつけた。 だが次の瞬間には穏やかな表情に戻った。 リモコンを片手にテレビを消した武爺(たけじい)の足元にはボストンバックが置かれている。 「賢三郎(けんざぶろう)、早く逃げねえと台風に追いつかれちまうだろ」 武爺(たけじい)は照れ臭そうに庭先に向かって言い放ち、家をしばらく空ける準備を進めた。 「さっきは悪かったな、賢三郎(けんざぶろう)、ありがとうな」 武爺(たけじい)はごつい脚を靴に押し込み、玄関先から賢三郎(けんざぶろう)に声を掛けたのだった。 「武爺(たけじい)」 拍子抜けした賢三郎(けんざぶろう)も気恥ずかしさを隠すように、先祖から引き継がれてきた武爺(たけじい)の古い家屋を見上げた。 集落の人たちにも勇ましい猛者(もさ)だったと知られた武爺(たけじい)の先祖がずっと暮らしてきた屋敷である。 濃紺の空に雲が勢いよく流れていく。 賢三郎(けんざぶろう)の車に乗り込んだ武爺(たけじい)は祈るように呟いた。 「持ち(こた)えてくれよ」 静まり返った集落の中を武爺を乗せた賢三郎の車は、赤いテールランプの筋を残しながら走り去っていく。 武爺(たけじい)は我が身と同様に避難させたボストンバックを抱きしめた。 この中には一通の手紙も忍ばせている。 先祖からの知恵を伝える大切な手紙であり、その文面の中にはこんな一行も書かれていた。 「臆病者に耳を傾けぬは愚者(ぐしゃ)の証」 濃紺の空に雲がさらに一段と勢いを増して流れていく。 赤とんぼも、もうどこかへと姿を消してしまったようである。 山深いこの集落を嵐の前の静けさがすっかりと包んでいた。
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