お茶会は生者と死者のために

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お茶会は生者と死者のために

深い眠りから目が覚めてなおだるい体。 そんな最悪の状態で直人(なおと)はスマホを手に取ってしまった。 画面が示す時間は朝の九時。 十二時間近くも寝てしまっていたことに愕然とする。 そしてその割には疲れがとれていないな、とも絶えず鈍痛を発し続ける脳で考えた。 今日の予定はないので二度寝しようとした。したのだが。 「ん?」 スマホのロック画面が一本の新着メールを知らせていた。 これさえ見なければ二度寝の快楽に浸れたのに。 「明日の朝十時からお茶会だ。くれぐれも遅れるな」 そんな簡潔な文言の誘いや連絡とは程遠い、命令が来ていた。 受信したのは昨日の夜九時。直人にしては珍しくとっくに寝ている時間だった。 昨日は「実験」に付き合わされて疲れていたのだからどうしようもない。しかも体をいじくりまわされる被験者なのだ。最悪の一日だった。 そして今日も最悪な一日になりそうだ。 でもせめて三十分はズキズキする頭と体を休めよう。 で、今何時だったっけ。スマートフォンをまた開く。 画面が示す時間は、朝の九時二分。 画面が示す時間は、朝の九時二分。 何度見ても九時二分。 枕元に置いてある時計も九時二分。 テレビをつけても九時二分。 九時二分? 首筋から背骨にかけて悪寒が走る。生体電流の電気信号の速さで。 「まずい! 遅刻だ!」 反射的にベッドから飛び起きる。もう朝ごはんを食べる時間すらない。遅れたら何をされるか、わかったものではない。その恐怖が彼を突き動かした。 彼はクローゼットの中から、ワインレッドの半袖ワイシャツとグレイのネクタイ、それに黒いスラックスを取り出して、慣れた手つきでまとっていく。どす黒い赤の上半身が派手を通り越して異常な気配を醸し出している。自分でも似合ってないと直人は思う。だが、これは他でもない「彼女」の命令だ。断るわけにはいかない。 驚異の速さで身支度を済ませると、直人はマンションから飛び出した。 クマゼミのシャーシャーという鳴き声が耳朶を叩く。あと四十五分。 さび付いたママチャリを漕いで走る。パンクしたタイヤのせいで揺れがひどい。あと四十分。 本来なら一時間以上かかる道のりを、がむしゃらに気力だけで走破する。疲弊した体はもはや機械。機械のように感情を殺し、何も考えずオートで動く。こうするのが一番早いように思われた。汗が目に入り痛い。あと二十分。 こんな日に限ってカンカン照りの空。体は焼けるように熱くなり、今すぐにでも水をかぶらないと灰になりそうだった。あと十分。 ようやく目的地が見えてきた。それは小高い丘の上にある蔦の絡まった大きな洋館だった。麓のスーパーマーケットに自転車を無断駐車し、自分の足でまたグラグラと走り出す。まだ走るのか。あと五分。 はっきり言って限界だ。この炎天下の中これだけ動くのは。マラソンのようにペース配分を考える余裕はない。全速力で館を目指す。あと四分。 荒い息を吐きながら、心臓が収縮と膨張をとてつもないスピードで繰り返す。あと三分。 レンガ造りの洋館の敷地内に入る。大きな木製の開き戸を抜け、絨毯のひかれた廊下を走り、地下室へ。あと一分。 長い階段を駆け下り、どうにか地下貴賓室の扉を開ける。 そこで限界が来た。 直人は膝から崩れ落ち、蒼白の顔で荒く呼吸を繰り返すことしかできなくなる。 並大抵でない疲れが酷使した体にのしかかっていた。 明かりのない真っ暗な地下室から人影が現れる。 昨日も見た顔だった。カツ、カツとハイヒールを威圧するように鳴らしながらも、その人物の表情は穏やかだった。直人は内心安堵した。殺されずには済みそうだ。 「遅かったじゃないか。一分二十四秒の遅刻だ。」 カツ、カツという規則的な音は遅刻した秒数を正確に測るためだったようだ。 「彼女」は倒れ込む直人を上から見ている。 体を外界から守る鎧のような白衣。それとは全く不釣り合いな鮮やかな赤色をしたブラウスとタイトスカートに黒いストッキング。腰まで伸びる黒い髪。クマの出来た気だるげな瞳のせいで台無しになっている顔立ち。いつもニヤニヤと笑う口。見た目だけなら二十代後半なのだが、直人が小学生の頃から見た目が一切変わっていない。不気味だ。それらすべてはあまりにマッドサイエンティストにふさわしすぎる。 「……これでも全力で来たんだよ」 ようやく息が整い、手渡されたタオルで汗をぬぐいながら弁明する。 「君のような、しがないニートの相手をしてくれる女なんて私くらいだよ?もっと大切にしたらどうだい?」 ニートって。ほとんど事実だけど癪に障る。 「博士だって引きこもりじゃねえか」 と口をとがらせて言うと 「君がおかしいんだよ。こんな炎天下の外を出歩けるのは君くらいだ」 などと冗談めかしながらも、その目は笑っていない。 口を針と糸で縫い付けられる前に黙ることにした。 「で、私のことをもっと大切にし給え。わかったね?」 などと言ってくる。疲れているのにさらに疲れる。 「大切にしてるからボロボロの体を引きずって、二日連続で来てるんじゃないか……博士」 本音はペナルティで「実験」が増えるのが嫌だからなのだが、あながち嘘でもない。 博士にはいくつもひどいことをされたが、嫌いにはなれなかった。 「うん。まあそうか。早く座り給え」 彼女はあまり興味がなさそうに応え直人を促した。やっぱり二度寝しておけばよかった。 この地下室には照明の類は一切なく部屋は暗い。 まあ自分以外必要ないから仕方ないか、と直人は思う。 だんだん眼が慣れてきてぼんやりとした白い靄(もや)のような影が見えてきた。博士が手で示した先には大きな円い食卓があるようだ。 「げっ……」 直人は思わず呻く。 先ほどは暗くてよくわからなかったが、円卓を見るとそこには、直人以外の全参加者が座っていた。いつもならまだちらほらと空席があるはずなのに。 そしてこの空気。いつもとは違い非常に厳粛な空気がテーブルの周りを覆っていた。 急に、遅れてきたことが本当に申し訳なくなってくる。 時間を守らないのはどこでも印象が悪いものだ。自分はこの中で一番下っ端なので印象は最悪だろうな、と直人は思った。 そんな身だから、明かりを点けてくれ、などということは言えなかった。 といっても、このメンバーで遅刻のことを気にしているのは博士だけだろうけど。 この食卓は円卓なので席次などはない。必然的に空いている席に座ることになる。 ただ、その空いている席が問題だった。 博士の席の横なのはまあいい。だが、もう片方の横があの男なのはまずい。暗くてもあの巨体は見間違えようがない。よりにもよってあの男。 思わず博士の方をキッと睨むと、そのシルエットがにやりと笑ったような気がした。遅れた罰ってことかよ。いや根回しが良すぎる。昨日からそのつもりだったのか? まだ痛む頭を抱えながら、暗闇の中、恐る恐る席に近づき鉄でできた椅子を引く。着席。 ああ、間違いない。今日は昨日以上に最悪の日だ。 「よし、十三人揃ったな」 同じく席に着いた博士の声が暗がりに響く。 よく周りが見えるな、と直人は改めて思う。 そして恒例の博士の挨拶が始まる。 「同胞のみんな。この度は私のお茶会にご参加いただきありがとう。悲しみを慰め、楽しんでもらえると嬉しい。以上。ああ、私から時計回りに自己紹介をお願いする。新メンバーもいるのでな」 新メンバー?  一瞬、自分のことを言っているのだろうか、と一瞬考えたが、それはすぐに否定される。 部屋の中の視線がある一点に集中しているのだ。それは自分が座っているところからちょうど真反対の席だった。闇に埋もれた顔は全く見えない。 「まず、私からだ。私は新月水早(しんげつ みはや)博士だ。この世の探求のために生きている。よろしく頼む」 という簡潔な挨拶で終わらせた。 いつもならもう少し話すのに、と直人は訝った。 自分から博士と名乗るのもどうだよ、と昔は思ったものだが、それ以上に適当な呼び名はマッドサイエンティストしか思いつかない。その言葉を口にしたとき竹田直人の人生は終わるだろう。いやもう終わっていたか。 博士が座ると、その左隣に座っていた影が立ち上がる。 「うむ。我が真名(まな)はジェイムズ・アルバート・セイクリッド・ブラッドソード。好きな色は紫。好きな動物はアルマジロ。好きだった食べ物はフィッシュアンドチップス。好きな女性のタイプはオードリー・ヘプバーン。今は牧師をしている。趣味はチェス。座右の銘は「一日一善」。出身地はアメリカ。最近読んだ本は「源氏物語」。我が生きた年月は――――」 そこで直人はブラッドソードの悪癖を思い出し、目と耳を閉じることにした。この男、なかなかの曲者で挨拶だけで十分以上かかる。しかもその話のリズムは単調で、最初聞いたときですら途中から頭に入らなかったし、三回目となる今回も全容は杳として知れない。 繰り返し言うが、ほとんどのメンバーは時間に頓着していない。 けれども、この自己紹介の内容を聞く気力がある者も間違いなく居ない。 自己紹介以外は話していても普通の受け答えなので、遠い昔になにかあったのだろうな、と直人は考えている。 ここで真面目に聞いて体力を擦り減らすのは得策ではないので、新参者の自己紹介まで休むことにした。 一人、二人、三人と見知った顔の自己紹介が終わっていく。 そして七人目。初めて聞く名前があった。 「え……と、はじめまして。えと、この度はお招きありがとうございます新月さん。え、と、この体になったのはついひと月前で右も左もわからない若輩者ですが、よ、よろしくおねがいします!」 とかわいらしい声で、勢いよくお辞儀をした。 ほっそりとした影しか見えないので何とも言えないけれど、高校生くらいの少女だろうか。必要以上に大声なのは緊張に呑まれているからだろう。 半年前の自分を重ねて気の毒になった。 耳を澄ませると、彼女の隣のエリザベートさんが小声で「名前、名前」とフォローを入れていた。 「ああっ。え、え、と、あの、名前は、黒井愛華(くろい まなか)です!」 と言って彼女は俯いてしまった。流石に同情した。 ふと博士の方を見ると、何やらニヤニヤと彼女の方を見ている。顔は見えないけれど間違いない。意地の悪いことだ。 そして、また聞きなれた自己紹介が続くため聞き流すことにした。 そしてついに、右隣に座る男の番になった。男は3メートル近い巨体を持ちあげた。 その顔はきっといつものように険しいことだろう。 「カインだ。この中では一番年上ということになるだろうな。黒井。よろしく頼む。」 と短く終わらせる。 愛華はその厳しい表情に負けたのか、思わず立ち上がり礼をした。 「よ、よろしくお願いします!」 その声は緊張か恐怖か、ひどく震えていた。 ついに直人の番だ。 「えーと、遅刻してすみませんでした」と頭を下げておく。 「竹田直人です。18歳。吸血鬼歴は七か月。好きな食べ物はステーキ。この右のおっさんに殺されかけて、左の博士に吸血鬼にされました。以上」 着席すると同時に、えっ、という愛華の声がこちらまで届いた。 それと同時にぞっとするほどに冷たい視線を右隣りから感じたが、気のせいだとしておく。そうしないといけない気がした。 そして彼は重要なことを今言った。 そうだ。この茶会に集まっているのは誰もかれもが吸血鬼。不老であり、他人の血を吸うことで永らえている集団だ。全く現実味がないけれど、これは偽りない真実だ。今の直人の体がそれを証明している。 「……まだ私は貴様が同族とは認めておらん」 静かで低い声が怒気をはらんだ言葉を紡いだ。 これが平常運転というのだからたまったものではない。 このおっさん、同族にはめっぽう甘いが人間には容赦がない。 まあそれも納得はできるだけの理由がある。カインは、旧約聖書「創世記」の時代から今に至るまで、裏切り者、嘘つき、殺人者などといった不名誉な異名をもらっているのだ。 人間嫌いになるのも仕方がない。 「……そういわれても俺は吸血鬼だ。飲みたくない血を飲まないと生きていけないし。」 直人はそう抗議するが、 「ならその眼はなんだ。貴様、黒井の顔すら視えていないだろう」 もっともな反論だった。返す言葉がない。 そこでブラッドソードが口をはさむ。 「うむ。そうであったな。早く言えばいいものを。明かりを持ってくる。」 そう呆れたように言って席を立った。 直人は軽く声のほうに会釈した。相変わらずどこにいるかは全く視えていないが。 きっと愛華はまた困惑しているだろう。暗闇で何も見えない吸血鬼なんて欠陥品以外のなにものでもないのだから。 そうだ。普通、吸血鬼は暗闇でもすべてがくっきりと視える。 でも直人は何も視えない。人間と同じくらいしか夜目が効かない。 暗闇に紛れて人を襲う吸血鬼にとって、これは食糧を調達できないことに等しい。獲物である人間の血がなければ、遠からず灰となって消えるだろう。 といってもそれは昔の話で、今は血液パックがあればなんとかなる。 ただ、飲んだ瞬間口の中に鉄臭いどろりとしたソースを流し込むような感覚はマズすぎる。いまだに慣れないし嫌いだ。 人間の食事が摂れる吸血鬼でよかった。小説の中の、血が主食のやつらには心の底から同情する。 しかし、直人以外の吸血鬼は血のほうが美味いと思っているらしく、直人は同情されている。 「そい」 ブラッドソードは持ってきたろうそくに火をつけた。 するとぼんやりとした暖かな光が円卓の真ん中から周りにぼんやりと広がった。 「おっちゃん。ありがと」 「ジェイムズ・アルバート・セイクリッド・ブラッドソードである。いい加減、最低限の口の利き方は治させたほうがいいぞ、新月」 博士の方を見ながら、ブラッドソードは棘のある声でそう言った。彼にしては珍しくピリピリしている。なんか発言もずれている気がするし。 すると博士はいつものように悪びれもせずクククと笑いながら 「いや、こいつはこういうところがいいんだよ。それに何のための円卓だい?席次や口の利き方なんかにこだわるのはアーサー王の時代から無駄だと言われているんだよ」 と言った。 一見まともそうな意見だが、アーサー王の時代より前に生まれたカインだけはその論理に従わなくてもよい、ということにはならないか?と直人は思った。 というか博士の言葉も反論になっていない。皆どうしたんだ一体。 ブラッドソードは博士の態度が気に入らないようで、そっぽを向いてしまった。 「さて自己紹介は終わったな」 博士は一転して真剣な面持ちになった。普段の彼女では決してありえない。 「積もる話もあるだろうが、それはこれを飲みながらでもしてくれ」 いつの間にかワイングラスがそれぞれの手元に配られていた。 赤い「お茶」がその下半分を満たしている。 博士は自分の分を取るとこういった。 「さて、献杯の音頭は私が取らせてもらおう」 けんぱい?乾杯じゃなくて? 困惑していると、愛華と直人以外のメンバーはグラスを掲げ、黙とうするように目を閉じていた。慌てて二人もそれに倣う。 博士は厳粛につぶやいた。 「クロスロード伯爵の魂に献杯」 あっ、と気づいた。気づいてしまった。 何故新メンバーの愛華がいるのに席の数が変わらないのか。どことなく違和感のある厳粛な空気。様子のおかしい面々。昨晩、急に決まったお茶会。 それはすべてこのためだったのだ。 クロスロード伯爵。二回しか会ったことはなかったし、伯爵というのにあまりに影の薄かったあの人。でもあの人は、新参者の俺の事を気にかけてくれていた。何もわからなかった俺に積極的に話しかけてくれた。目立ちはしなかったが、誰にでも分け隔てなく優しかった。 ああそうか。あの人死んでしまったのか。 実感の伴わない死の宣告だった。 吸血鬼は不老ではあるが不死ではない。超常的な再生能力を持つとはいえ、殴られれば痛いし、銀の銃弾で撃たれれば死ぬ。 この二十一世紀の現代においても吸血鬼を狩る組織があるという。クロスロード伯爵の死もきっとそこの仕業だろう。 隣を見ると、カインが目から大粒の涙を流しながら空を仰いでいた。エリザ ベートさんも左手のハンカチで目じりをぬぐっている。ヴラドのおっさんも黙ったままだ。 それはそうだ。数少ない同胞が死んだのだ。泣くだろう。悲しむだろう。 でも直人は泣けなかった。クロスロードとの付き合いは極めて短かったし、悠久の時を生きる吸血鬼クロスロードにとっては、もっと短く感じる時間だっただろう。 果たして自分に泣く資格があるのだろうか。そんな疑問が胸の中でわだかまってほどけない。 そしてカインの言葉が直人の頭の中央を占拠していた。 「お前は吸血鬼ではない」 なら吸血鬼ってなんなんだよ。お前らだって元は人間だろう。人間から血を吸う生き物ってだけじゃだめなのかよ。暗闇が見えないといけないのか?太陽の光で焼け死ななきゃいけないのか? クロスロード伯爵の死を悼んではいけないのかよ! 吸血鬼じゃないからって! いや、俺は人間ですらない。なんなんだよ俺は! 赤の液体はゆらゆらと揺れる。 やがて各々にグラスの中の濃い血液を飲み始める。 未だに口をつけていないのは愛華と直人だけだった。 愛華は血液を忌避しているのか、物憂げにグラスを揺らすだけで飲もうとしない。 直人の方は不味い血でもないよりはましだ、と思いちびりちびりと飲み始めた。 しかし、その予想はいい意味で覆された。 味蕾が感じるのは、あの酸っぱくて鉄臭いものではなく、熟成された酒のように甘く芳醇な香りを醸し出すものだった。驚くどころの話ではない。普段延命用に呑んでいるものとは全くの別物だ。 壁際の方を見ると、博士がはじに置かれた樽の方に歩いていくところだった。 そして樽から飛び出た蛇口をひねる。すると空っぽだったグラスがまた赤く染められていく。それに口をつける。彼女の瞳は潤んでいた。いつもの不敵な笑みをしていない博士はなんだか嫌だった。 樽の中身を想像する。きっとあれは血液パックと違い新鮮なのだろう。 直人は、一歩間違わずに人間のままだったら自分もこの樽の中身になっていたのか、と思い顔を歪めた。しかし皮肉なことに今はもはや飲む側に立っている。 ああ、そうだ。自分は目も視えないし、太陽のもとでも普通に動ける。そんなものは吸血鬼ではない。けれど、このときは。血を飲んでいるときだけは吸血鬼であることを実感できる。 ふと、人間をやめたときのことを思い出した。 あのときは博士が吸血鬼だなんて思いもよらなかったし、人間じゃなくなるのが嫌だった。当然だ。人の形をしているとはいえ、殺人を犯さないと自分の命をつなぐことのできない生き物なのだから。 けれど今は、皆とそんなに仲は良くないけれど、この空間は悪くないように思える。 全員の顔を見回す。新月博士。カイン。エリザベート。ヴラド。ブラッドソード。八尾比丘尼。信長。楊貴妃。クレオパトラ。アイスフラワー。ケイオス。そして今は亡きクロスロードの代わりの愛華。 クロスロード伯爵ともっと話をすればよかった。そんな後悔が波のように押し寄せる。 博士以外はまだ付き合いが浅いが、今からでも仲よくしたいと心の底から思った。 そんな思考を打ち切って正面を見据えると、まだ愛華がグラスを揺らしていた。 その様子は過去の自分を想起させた。彼女の心は嫌悪感に満たされているのだろう。 ひどく悲しげなその顔は吸血鬼になった自分自身を憂いているように見えた。 でも直人はもう心配していなかった。 きっと彼女ももうすぐこちらに来るだろう。そう信じていた。 そして乾きかけてきたグラスの中身を一気に食道に流し込んだ。 胃の中に人間の魂の甘い味と、それが生きた証の芳醇な香りが染み渡った。 直人は、今度カインに人間の狩り方でも教えてもらおうか、とらしくもないことを考えた。 なぜだか自然と眼から涙が流れた。そういえば血と涙は同じ成分なんだっけ。
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