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 笠森は警察署の自分に割り当てられた机にて、頭を悩ませていた。この連続自殺事件は、これまで関わってきた事件とは違う。この事件を解決できるかどうかで、今後の刑事として自分が向かう道が定められるかのような予感さえした。そもそも、笠森は今年の四月に刑事になったばかりの新人だ。この半年、帝都を騒がせるような大きな事件がなかったこともあり、今回のこの事件にかける意気込みは人一倍だった。  ざわざわと騒がしい署内で、静かにたばこを吹かしながら新聞を眺めている高岡に視線を向ける。組んだのは二ヶ月前であるため、まだ彼の人となりを理解したとはいえない。しかし、ずいぶんと『場に合わせる空気作り』がうまいと思う。数日前に明智邸を訪れたときには、どこぞの紳士かと言うようなスーツに新品の革靴であったが、いまはよれたシャツに無精髭のどこにでもいる男だ。  じっと見つめる視線に気がついたのか、新聞から目を上げた高岡が軽く片手を振った。 「今日はもう帰ってもいいぞ。あちらさんが指定した日時じゃなきゃ、お話を伺いに行けやしないからな」 金持ちは我が儘が言えていいねぇ、などとぐちぐち言いながら再び新聞を眺め出す高岡に、こみ上げるため息を押し殺して帰り支度をはじめた。  父親も警察に勤めているので、幼い頃から自分も刑事になると公言していた。いつから言い出したのかは覚えていない。物心つく前から言っていたようだし、親戚も口々に『お父さんと同じ警察官に』と言っていたからその影響もあるかもしれない。もちろん、刑事が子供の憧れるような『正義の味方』ではないことは、十五歳を過ぎる頃にはわかっていた。警察も組織である以上、上からの指示に従うことになる。犯人までもう少しでたどり着く、というような状況の時でも、上が捜査打ち切りと決めたなら捜査は中止される。それ故に、時にはどんな手段を使ってでも、いち早く事件を解決し、犯人を逮捕する。苦悩しながらも刑事を続けている父の背中を見てきたから、自分は今、ここにいるのだろうか。  笠森の目の前には、湯気を立てているコーヒーがある。そして、その湯気の向こうには、明智夫人が微笑んでいた。 「コーヒーはお嫌いでしたか?」 自分もコーヒーに口をつけながら、笠森に勧めてくる。特別コーヒーが飲めないと言うこともなかったので、心を落ち着けるためにも一口飲もうとカップを持ち上げた。 とたんに鼻に抜ける香りに驚いた。自分がこれまで飲んだことのあるコーヒーは、こんなに豊かな香りはしなかった。いつも警察署で眠気覚ましのためにと飲む、あのどろどろとしてひたすらに苦い液体ではない。おそるおそる少量を口に含むと、優しい苦味が口内に広がり、後味はすっきりとした酸味が残る。  にこにこと、こちらを見ている明智夫人が目に入り、ハッと意識が現実に戻される。気恥ずかしさに、咳払いをして姿勢を正す。相変わらず、夫人の隣に座る女中は眉間にしわが寄っているな、と思いながら口火を切った。 「なぜ、自分をこの店に呼んだのですか?」 こうして明智夫人と警察署近くの喫茶店にて向き合っているのは、帰宅途中の笠森に女中が声をかけてきたからだ。路地裏から音もなく現れて、奥様がお待ちです、と言ったきり一度も振り返ることなくこの店まで歩き続ける少女について行こうと思ったのは、進展のない捜査に焦れて、すこしでも手がかりが欲しかったからだ。 「高岡さんはお元気?」 「質問に別の質問で返さないでいただきたい。元気ですよ」 ごめんなさいね、と微笑みながら女中に手渡された紙の束を、そのままこちらに向けてテーブルの上に置いた。 「これは?」 こちらに置かれたということは手にとってよいのだろうと判断し、束の一番上に置かれているものに目を通す。 「私が今回の事件の被害者に会ったときの記録です。三名の記録をまとめてあります」 確かに、被害者の名前が記載されている。ゆっくりと顔を上げて夫人の表情をうかがうように見る。 「なぜ、今これを?情報整理に時間がかかるからと、訪問日を明日に指定したのはそちらのはずだ」 それに、なぜ自分一人に渡してきたのか。 「あなたの考えが聞きたいと思ったのです」 夫人の黒い瞳が、まっすぐにこちらをみつめている。 「高岡さんは刑事としての経歴も長そうですから、きっと警察内部でのしがらみなどもあるでしょう。警察が一枚岩ではないということは知っています。大きな組織というものは、そういうものです。彼がどのような思想の派閥に身を置いているのかわかりません。もしかしたら、『上の望む結果』になるよう、事件の真相を誘導してしまうかもしれない。その点、あなたはまだ、どこにも染まっていなさそうだと思いまして」 純粋に事件を解決しようとしている人の意見を聞きたいのです、と紙束を読むことを促される。おとなしく従ったのは、正義の味方にはなれなくても、幼い頃に憧れた、なんとしてでも事件を解決しようとする父の背中に、少しでも近づきたかったからなのかもしれない。
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