プロローグ

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プロローグ

 九月初旬の蒸し暑い空気が、帝都を包み込んでいる。空がうっすらと暗くなり始め、ぽつぽつと道沿いの店や民家が電気をつけはじめるのを眺めながら、明智文代は一軒の喫茶店に向かっていた。 文代は月に一度か二度、その喫茶店でコーヒーを飲む。 大通りを挟んだ真向かいに古本屋があり、いつもそこに寄って文庫本を一冊買い、喫茶店で冷やしコーヒーを飲みながらゆっくりと読書を楽しむことを好んでいた。  喫茶店は店主が西洋の古い家具の収集を趣味としているので、数年前にできたばかりなのにとても落ち着いた雰囲気の、こぢんまりとした店だ。 その日も文代は古本屋で本を買うと、喫茶店を訪れた。連れてきた女中が先に立ち扉を開けると、店主がカウンターの中から会釈をする。それほど広くはない店なので、その場でぐるりと店内を見渡すとすべての席を確認できた。 満席になっているところを見たことはないが、一人も客がいなかったこともない。 今日はカウンターの席に初老の男が一人と、窓際の席に若い痩せた男が一人いた。 初老の男は何度か見たことがあり、店主が気安げに話しかける様子を見るに、知り合いか、もしくはかなりの常連客のようだ。 その男が紳士的な出で立ちであるのに対し、窓際の男はよれた着物をきて無精髭を生やし、髪もボサボサで、いかにも外見に気を遣っていない様子であった。机の上にお置かれた冷やしコーヒーはあまり手をつけられた様子がなく、ただじっと窓の外を眺めているようだ。  文代は窓際の男の隣の席に腰を下ろした。 向かいに女中が座ると、ウェートレスがにこにことした人懐っこそうな笑顔で注文を取りに来たので、冷やしコーヒーを二つ命じると、先ほど買ってきた文庫本を開く。 「またお得意の人間観察ですか?」 文代が本から目線を外さずに、独り言をつぶやくように言った。 「はい、人間というものはいくら観察しても飽きないものですね」 男も窓の外を眺めたまま口を開く。 呆れたようなため息が文代の口から漏れると、男は弁解をするように慌てて言った。 「いやいや、これも大事な仕事ですよ。日常の中に、小説のネタになる物がないか探しているのですから」 ふと、目の前に置いてあるコーヒーを思い出したようで、ゴクリとグラスの半分ほどまで一気に飲むと、再び窓の外に顔を向けた。 「そうでしたか。けれど、先生。ここ一年ほど新作を書き上げたというお話は伺っておりませんが」 「そうですねぇ・・・・・・」 「今日は何か、お話にできそうなネタは見つかりましたか?」 「いや、なかなか」 男があまりにぼんやりとした返答しかしないので、文代は呆れかえってしまったが、女中はどうやらひどく苛立っているようであった。目線を向けなくても、空気でわかる。  その後は、運ばれてきた冷やしコーヒーと読書を楽しみ、一時間ほどで店を出た。 男はまだ、外の景色を眺めていた。
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