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ミドリⅤ
乱反射するシャンデリアの明かりが眩しくて、俺は目を細めた。ここは、海の見える結婚式場として有名なホテルだ。目の前には舞台があって、頭上に「ブロッサム教団3周年記念パーティー」と書かれた垂れ幕が下がっている。
パーティ会場には着飾った人々が集まっていた。俺は会場の扉に手をかけて、中を覗いていた。ハルの姿を探してキョロキョロしていたら、肩を叩かれた。俺はびくっと震えて振り返る。そこにはホテルのボーイが立っている。彼は白い歯を見せてこう尋ねてきた。
「お客様、失礼ですが招待状はお持ちでしょうか」
「え? い、いや……」
「招待状のない方はお通しできない決まりですので。当ホテルにご宿泊でしたら、フロントまでご案内しますが」
「ま、間違えましたすいません」
俺は慌てて踵を返し、その場を去った。心臓がどくどくと鳴っている。こっそり柱の後ろから様子を伺うと、先程のボーイが閉まった扉の前に陣取っていた。その目は鋭くて、アリ一匹も通す気がないように見える。しょうがない、ここで待つか。
柱にもたれて廊下に飾られた花を眺めるふりをしていたら、会場からわっ、という歓声が聞こえてきた。そのあと、割れんばかりの拍手が響く。たぶん、レイコが挨拶でもしているのだろう。教祖だけあってすごい人気だ。美しく、カリスマ性があって、すごい人なのだろう。しかし、自分の思い通りにするために、娘さえもねじ伏せようとする冷酷さを持っている。
ひどい人だ。
早くパーティが終わらないかな。
手持ち無沙汰で花をいじっていると、ポニーテールの女性従業員が目の前を横切った。花束の入った大きなバスケットを腕に下げている。俺は違和感を覚えて彼女を目で追った。あの人――どこかで見たことがある。頭の中で知っている顔を思い浮かべていき、はっとする。神田さん?
今はこのホテルで働いているのだろうか。まさか、パーティのことを知って? でもどうやってだ。彼女はもう教団員ではない。ふと、ハルの言葉が脳裏に蘇る。脅迫状が来たり、ゴミを漁られたりもした。
「あの」
声をかけたら、女性が振り向いた。胸元には「神田」という名札がついている。間違いない。
「神田さんですよね。覚えてませんか。俺、結城ミドリです」
「いいえ。存じません」
神田さんはそう言って笑顔を浮かべた。その笑顔には、一点の曇りもない。彼女は俺に背を向けて会場へ向かった。ボーイに会釈し、そのまま会場に入っていく。ポニーテールが揺れるたび、うなじにある太陽の入れ墨が見え隠れしていた。俺は思わず彼女を追った。神田さんのことはあっさり通したボーイは、慌てて俺を引き止めた。
「君、ここは立入禁止だって言っただろう」
「あの人、止めてください」
「何言ってるんだ」
「神田さん!」
舞台上で、レイコが乾杯の音頭を取っているのが見える。舞台の端では、真っ白なドレスを着たハルが立っていた。彼女はつまらなそうな顔をしていたが、俺に気づいて顔を明るくした。しかし俺が慌てているのを見て、すぐにその表情が怪訝なものになる。神田さんはポニーテールを揺らしながら、舞台に近づいていく。
レイコは俺にもハルにも、神田さんの様子にも気づいていなかった。ただ自分が成し遂げた偉業に酔いしれているようだった。やめろ、とか逃げろ、とか叫ぶ俺の声は、グラスの重なり合う音や拍手の音にかき消された。神田さんは足早に舞台袖に近づいていって、壇上にあがった。
シャンパンを飲み干したレイコは、神田さんのほうを見る。
「当ホテルから、お祝いの花束です」
神田さんは笑顔でカゴを差し出した。レイコは神田さんを見ても全く動じず、カゴを受け取ろうとした。どうして何も言わないのだろう、と思ってから、俺はハッとした。あの人、神田さんの顔を覚えていないんだ。ハルは神田さんに気づいたらしく顔をこわばらせた。
レイコが「お仕事ご苦労さま」と言った瞬間、神田さんの笑顔が消えた。彼女はカゴの中に手を入れ、花束を床に投げ捨てた。神田さんが握っていたのはナイフだ。ハルが悲痛な声をあげた。
「ママ!」
カゴが舞台上に落ちて、花弁が散乱した。空を切ったナイフがレイコの手を切り裂き、鮮血が舞った。
きゃーっと悲鳴があがって、みんなが舞台から遠ざかろうとする。俺は出口から逃げようとする客たちに押されつつ、中に入ろうとした。
「ハル!」
人波に押されるせいで、舞台上で何が起きているのかわからない。ボーイは押さないでください、とか落ち着いてください、とか叫んでいるが、誰もそんなこと聞いちゃいなかった。俺は客たちの間をすり抜け、なんとか中に入った。
会場は惨憺たる有様だった。カーテンは破れ、テーブルは倒れ、グラスや皿が床に散らばっている。従業員はうずくまる客を支えて非常口へ向かったり、インカムに向かってなにか叫んだりしている。俺は怯える客たちの間を縫って、舞台へ向かった。
舞台上では、しゃがみこんだレイコが神田さんにナイフを突きつけられていた。レイコの手は、ひどく出血していた。彼女は震えながら神田さんを見上げる。神田さんは無表情でレイコを見下ろしていた。
ハルは? 俺は、舞台袖でハルが立ちすくんでいることに気づいた。こっちに来い。そう目で合図したが、ハルは神田さんとレイコから目を離そうとしない。神田さんはナイフを突きつけたまま、淡々とした口調でいった。
「あなたのためにあらゆることをやったわ。一週間休みなく働いて、借金して、ご苦労さまで終わり?」
「お、お金なら渡すわ」
レイコは懐から財布を出した。
「そんなものいらない。あなたを殺して、私がバラモンになる」
神田さんが振り上げたナイフは、レイコではなく、割り込んできた真っ白なものに突き刺さった。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。レイコもそうだったのだろう。彼女は顔をあげ、呆然とつぶやいた。
「ハル」
刺されたのはハルだった。
ハルは微笑んで、「大丈夫。ママのことは、私が守るから」と言った。神田さんは呆然とした顔で後ずさった。彼女の手から滑り落ちたナイフが、空虚な音を立てて落下した。
俺は舞台のほうに走って行って、壇上に駆け上がった。崩れ落ちたハルを抱きとめて揺さぶる。
「おい、しっかりしろ、ハル!」
「……ミドリくん」
ハルは真っ青な顔で俺を見上げた。刺されたところから、信じられないくらい血が出ていた。俺は必死に患部を押さえつけ、出血を止めようとした。ハルはこちらを見上げて、震える声で言う。
「また江ノ島、行きたかったな」
「何度でも行けるよ。ちょっと待ってろ、救急車呼ぶから」
携帯を取り出し、血に濡れた手でボタンを押す。手が震えている上に、すべってうまく行かない。俺は、絶句しているボーイに救急車を呼べと叫んだ。ボーイがインカムに向かって叫ぶ。ハルはぼんやりとした口調で続ける。
「結婚式、したかったな。このホテルで」
「できるよ、俺、頑張って金貯めるから。300万くらいあればできるんだろ?」
「ふふ。きっとその頃には、私、死んでるよ……」
ハルはそう言って、ふっと意識を失った。俺は必死にハルの名前を呼んだ。廊下から、ガラガラというストレッチャーの音が聞こえてきた。
それからのことは、よく覚えていない。サイレンの音、ランプの音、点滅する赤い光。俺の手には、乾燥した血がこびりついていた。
K総合病院に救急搬送されたハルは、1時間後に息を引き取った。
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