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俺は夕食を終えた後、自転車に乗って桜の木がある場所へと向かった。自転車から降りて、桜を囲うフェンスの前に立つ。フェンスにもたれると、かしゃんと音が響いた。ポケットにはミユキさんからもらったラムネと、指輪が入っている。
ハルは果たしてくるのだろうか。俺の不安を煽るような、湿った空気が頬を撫でた。30分ほど経ったころ、ぽつぽつと雨が降り出した。雨は次第に本降りになって、俺の靴や肩を濡らした。濡れた部分が外気に触れて、徐々に冷たくなっていく。俺ははあっと息を吐いて、冷えた手を温めた。携帯を見ると、時刻は夜の11時だった。もう待っても無駄ではないかと思ったが、もしハルが来たら、と思うと動けなかった。
雨粒が葉の上をすべって、ぽたりと落ちる。夜中振り続けた雨は、次第に雨脚を弱めていた。俺は眠たい頭を振って、脳を覚醒させた。いま、何時だろう。鳥が鳴いて、あたりがだんだん明るくなってくる。エンジン音が聞こえたのでそちらに視線を向けると、バスの始発が通るのが見えた。もう帰らないと、学校に遅刻する。俺はくしゃみをして、自転車に乗ろうとした。
「……何してるんですか、あなた」
その声に顔をあげると、傘を差したハルが立っていた。朝もやのなか、白いワンピースを着て立っていると、妖精か何かのようだ。
「……ハル」
ハルはこちらに歩いてきて、無表情で言う。
「いま、朝の6時ですよ。まさか、夜通しずっとここにいたんですか」
「帰ろうとは、思ったんだけど……ハルが、来るかもって思って」
「あなた、馬鹿なんですね」
「そう、かも」
ふらついた俺を、ハルが抱きとめた。その拍子に傘が地面に落ちて、俺達の髪や肩を濡らした。細い身体と、短くなってしまった髪の感触に胸が締め付けられて、俺はそのまま、ハルを抱きしめようとした。しかし、彼女の身体がこわばっているのに気づいてやめた。きっと俺に触ると、汚れると思っているのだ。
「ごめん、濡れるよな」
俺はよろよろとハルから離れた。ハルはじっと俺を見ている。その冷たい目は、俺の好きなハルとは違っていた。でもここに来てくれたのだ。まだハルを取り戻すチャンスはあると思えた。彼女が帰ると言い出す前に尋ねる。
「なあ、携帯って持ってる?」
「母が解約しました」
「じゃあ、俺の貸すから」
俺はハルに携帯を差し出した。ハルは俺を見返す。
「ないとあなたが困るのでは」
「大丈夫。俺、友達いないし」
自虐で笑わせようとしたが、ハルの表情はピクリともしない。こんな時、自分が明るくて楽しいやつだったらと思う。そんな性格だったら、ハルとは出会ってないかもしれないけど。俺は携帯を操作して家の電話番号を呼び出し、ハルに見せた。
「これ、うちの番号。都合がいいときに電話して」
「かけません」
「じゃあ、俺がかけるから」
電話するなと言われるかと思ったが、ハルは拒否しなかった。俺はラムネを差し出し、「これ、お姉さんから」と言った。ハルはそれを受け取らずに踵を返し、バス停へと歩いていった。俺は去っていくバスを見送った後、自転車に乗って自宅へ戻った。
ずぶ濡れで朝帰りした俺を見て、母は当然ながら怒った。どうせハル絡みだろうと言われ、さっさと風呂に入るようタオルを渡された。風呂から出た俺は、朝食をとって学校へ行く準備をした。母には今日は学校を休んだらどうかと言われたが、連絡するのも面倒だった。学校へ向かうと、伊ヶ崎が声をかけてきた。
「なんか、顔赤いよ」
「ああ……ちょっとな」
額に手を当ててみると、じんわりと熱かった。もしかしたら熱があるのかもしれない。ちょっと寝れば治るのではないかと思い、保健室に向かった。書類を書いていた安城先生は、俺を見て顔をこわばらせた。
「何もしません。だるいんで寝かせてください」
俺はそう言って、ベッドに横たわった。目を閉じてうとうとしていると、カーテンが少し開いて、枕元に何かが置かれた。手を伸ばして触れてみると、ひんやりして冷たかった。氷嚢だ。俺はそれを手にし、額に当てる。しばらくそうしていたら、カーテン越しに声が聞こえてきた。
「……早瀬さん、最近こないけどどうしたの」
まさかあちらから話しかけてくるとは思わなかったので、少し返事するのが遅れた。
「家にずっと引きこもってるんです。母親に、なにかされたみたいで」
「なにか?」
「ハルの母親、宗教団体の教祖なんです」
一瞬の沈黙があって、「どんな名前の?」と聞かれた。
「ブロッサム教団です」
カーテンが開いて、安城先生がこちらに携帯を向けた。
「これ?」
彼女が見せてきたのは教団のホームページだ。うなずくと、「ハルさんがどんな様子だったか教えて」と言われた。俺はハルの見た目の変化や口調、表情のことを話した。先生は俺の話を聞いた後、こう言った。
「それは、洗脳を受けている可能性が高いわ」
「洗脳?」
「身体的な拘束を受け、物理的な力で価値観を変えられること。多くは暴力などね」
「母親が、ハルを殴ったってことですか」
「そうとは限らない。ハルさんの髪が短くなっていると言ったわよね」
母親が切ったのだろうか。ハルを自分の意のままにするために……。俺が嫌悪感を抱いていると、「ハルさんと連絡はとってるの?」と尋ねてきた。
「ハルは携帯を取り上げられてるみたいだったので……俺の携帯を渡しました。連絡するようには言ったんですけど」
本当にハルの考えが変わってしまっているとしたら、連絡はしてこないだろう。
「洗脳を解くには、ハルさんがおかれている状況を脱するのが一番よ。つまり、家から出ること」
「外に連れ出せってことですか」
「できればね。私、今日にでもハルさんの家を訪ねてみるわ。会うのは難しいと思うけど」
安城先生はそう言って踵を返した。俺はその背中に「先生」と声をかける。振り向いた安城先生に、「あんなことして、ごめんなさい」と言った。安城先生はじっと俺を見つめた。
「ええ。あのときは、どうして私がこんな目にあわなきゃいけないのかって思ったわ」
安城先生は目を伏せた。
「自分がひどいことを言ったって、後から気づいた。あなたはもっと辛い目にあっていたのに、慮ってあげることができなかった」
「すいませんでした」
俺はそう言って、頭を下げた。安城先生は頭を振って、「そんなことより、今は早瀬さんのことよ」と言った。ハルのことがなければ、俺はずっと安城先生に謝れずにいただろう。ハルがいるおかげで、俺は人を信じることができるのだ。
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