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その晩、俺は固定電話の前でハルからの連絡がくるのを待っていた。夕飯も食べずに電話の前でうろうろする俺に、母が声をかけてくる。
「あんた何やってるのよ、ミドリ」
「ハルから電話が来ないかなって」
「自分からかければいいじゃない」
それができたらとっくにやっている。俺から電話して、ハルの母親に勘付かれたらまずいのだ。そう思っていたら、電話が鳴り響いた。俺は急いで受話器をとって応答する。
「はい、結城です」
沈黙が落ちた。俺は受話器を握り締めて声をかける。
「……ハルか?」
「今日、安城先生が来ました」
「なにか話したか?」
「いえ。シュードラと話すと汚れるので」
「まだそんなこと言ってるのかよ」
俺は思わずうんざりした口調で言った。ハルはしばらく黙り込んだ後、口を開いた。
「あなたが心配していると、安城先生は言っていました」
「ああ、してるよ。先生も、俺も」
「私は学校を辞めました。先生が構う必要はないんです」
「辞めさせられたんだろ。まだ復学できるかもしれない。家から出ろよ」
「無理です……母が言っていました。学校は汚れた人間がたくさんいる。間違った教えを聞くと、頭が悪くなると」
それは間違ってる。おまえの母親は、おまえを都合のいいように操ろうとしてるだけだ。そう言おうとしていたら、ハルがこう続けた。
「わかりません。あなたがなぜ私に構うのか」
「お前が好きだからだ」
母が盗み聞きしているのはわかっていたが、俺はそう言った。ハルは何も言わない。
「俺のこと、信じられないか」
「わかりません。でも……あなたに、会いたい」
すぐに行くから待っていてくれと言って、俺は受話器を置いた。にやにやしている母を無視し、急いで自転車に乗って早瀬家へ向かう。自転車を走らせていると、門の向こうにハルが立っているのが見えた。
「ハル」
俺は自転車から降りて、「レイコさんは?」と尋ねた。ハルはかぶりを振って、「今はいません」と言う。俺はハルに誘われ、家の中に入った。広々とした玄関には、教団で見たのと同じ、太陽を崇める人々の絵がかかっていた。
その絵を横目に靴を脱いで、廊下を歩いていく。吹き抜けの広々としたリビングには、家族用の大きなダイニングテーブルが置かれている。部屋のあちこちには百合の花が飾られていた。むせ返るような百合の匂いは、ずっと嗅いでいると気持ち悪くなりそうだ。ハルは俺をテーブルにつかせ、紅茶を淹れて運んだ。
俺は紅茶のカップを手にし、口元に運ぶ。なんだか薬っぽい奇妙な味がした。この味には覚えがある。教団と、ミユキさんのアパートで出されたものだ。
「これって……」
「ハーブティーです。心が安らかになって、雑念がなくなります」
ハルは立ったまま微笑んだ。俺のことを完全に拒絶していた時から比べたら、ちょっとだけ表情が柔らかくなった気がする。俺はカップを置いてハルを見上げた。
「なあ、ハル。俺の家に来ないか」
ハルは目を瞬いた。
「結城くんの、うちに?」
「ああ。今すぐこの家を出よう」
俺はそう言ってハルの手を握った。ハルは躊躇しているようだったが、俺の手を握り返して頷いた。
「荷物をとってくるから待っててください」
そう言って、部屋を出ていく。
よし、このタイミングで指輪を渡そう。
俺はポケットに手を入れて、指輪を取り出した。そして、じっと指輪を見下ろす。なぜか指輪が二重に見えたので、目をこすった。
その直後、ぐらりと身体が傾いた。態勢を立て直すこともできず、そのまま床に倒れてしまう。手足がしびれて、やけに喉がかわいた。ふっと影が落ちたので顔をあげると、ハルが無表情でこちらを見下ろしていた。
俺はかすれた声でハルの名前を呼んだ。まさかこいつ、お茶に薬を盛ったのか。俺を洗脳するために? ハルは俺のそばにしゃがみこんで、そっと頬を撫でた。その手はやけに冷たかった。
「あなたは、私の特別な人です。しかし、今は悪い種を持っている。そのままでは、母は納得しません」
ハルはそう言って、部屋の電気を消した。ぼんやりとシェードランプの明かりがついて、目の前に香炉を差し出される。香炉からは、様々な香辛料が混ざりあったような匂いがした。
嗅いでいると頭がくらくらしてくる。ハルは念仏のように「アースリア様を讃えよ、アースリア様を讃えよ、アッサラーム・アライクム。アースリア様を讃えよ、アースリア様を讃えよ。アッサラーム・アライクム」と繰り返した。その言葉を聞いていると、徐々に目の前が暗くなっていく。
このままじゃダメだ。なんのためにここにきたのかわからなくなる。たしか、こないだ読んだ本に書いてあった。幻覚や眠気を覚えた時、痛みを与えれば意識を浮上させることができると。俺はなんとか腕を動かし、手の甲にがぶりと噛み付いた。そのまま力を込めると、滴った血がぽたぽたと床に落ちる。ハルは床に落ちた血を見て、はっと身体をこわばらせた。
「だめ」
彼女は手を伸ばし、俺の手を掴んだ。ほっそりした指に血がつく。俺は彼女の身体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だ」
だいじょうぶだ、ハル。繰り返していたら、ハルの身体が徐々に弛緩してきた。そっと身体を離すと、ハルは呆然とした顔でこっちを見ていた。
「ミドリくん……」
「大丈夫だよ」
ハルは俺の手を掴んだままで瞳をうるませた。真っ白な頬を涙が伝って、彼女の服を濡らした。俺は手を伸ばし、ハルの涙を拭う。彼女は目を伏せて、すん、と鼻を鳴らした。俺はハルを落ち着かせて、何があったのかと尋ねた。
あの日――フリマから帰った日、母の様子がおかしかった。彼女の手元には、離婚届があって父のサインだけがされていた。ハルはなんとか母を励まそうとしたが、逆効果だった。
ハルは携帯を取り上げられ、お香を焚いた部屋に閉じ込められた。監禁部屋にはレコーダーが置かれていて、ずっと洗脳の言葉が流れていたそうだ。母親は疲労で倒れたハルを抱き上げ、椅子に座らせた。そして、髪を切りながらこう言った。
「もうすぐ記念パーティーがあるの。汚れた部分を切り落としましょう」
ハルは短くなった髪を撫でて俯いた。
なんてことを。俺は怒りに喉を震わせた。さっさとこんな家は出ようと言うと、ハルがかぶりを振った。
「一緒にはいけない……ママが心配なの」
「あの人はおまえを閉じ込めて洗脳したんだぞ。そんなやつのこと、気にする必要ない」
「ママは本当は優しい人なの」
ハルは救急箱を取ってきて、俺の手に絆創膏を貼った。
「パパは、ずっと前から浮気してた。ママは苦しんでた。私の病気とか、お姉ちゃんのこととか……色々あったから」
だからといって、ハルを傷つけて良いわけじゃない。ハルはレターボックスを引き寄せ、ほっそりした指を伸ばした。中から数通の封書を取り出し、俺に差し出してくる。受け取って中を確認すると、赤い釘文字で「レイコ・ブロッサムは悪の種を植え付けられた。いずれ天罰がくだる」と書かれていた。
俺は顔をしかめ、「なんだよこれ」とつぶやく。ハルは「こないだから頻繁に届くの」と言った。なんでこんなものを取っておくのだろう。俺なら速攻で捨てるが。
「誰が送ってるんだ?」
「わかんない。でも、ゴミを漁られたりもしてるって。ママが、これ以上続くなら警察に届けるって」
「じゃあ、ハルが心配することないだろ」
「でも、なんだか嫌な予感がするんだ」
ハルはじっと俺を見つめた。
「日曜日に、創立3周年記念のパーティがあるの。それが終わったら、この家を出る」
放っておけばいいだろ。そう言いたかった。しかし他人から見てひどい母親でも、レイコさんはハルにとっては大事な人なのだ。
「約束だからな」
「うん、約束」
俺が差し出した指に、ハルのほっそりした指が絡んだ。
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