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読経の声が葬儀場に響いている。俺は制服を着て葬儀に参列していた。いつの間にか離婚が成立していたらしく、ハルは「桜庭ハル」という名前で荼毘にふされた。
すべての感覚がおかしくなっていて、寒いのか暑いのかよくわからなかった。焼香の際、線香の煙がひどく目に染みた。いつもテレビを見てのんきに笑っている母は、俺の隣で音もなく涙をこぼしていた。それに比べて、大げさに泣く信者の声がわんわんと頭の中で鳴っていた。
参列客の中にハルの父親の姿が見えたが、特に悲しそうには見えなかった。ハルの母親は抜け殻のようになっていて、焼香の最中も座ったままハルの写真を抱えていた。その手に巻かれた白い包帯は、ハルが着ていた真っ白なワンピースを思い起こさせた。
他人の俺は、本葬には参加できない。通夜を終えて母とともに葬儀場を出ると、喪服を着た安城先生が立っていた。彼女は母に向かって、深々と頭を下げた。母も頭を下げ返す。学校を辞めた生徒の葬儀に来る必要などないと思ったのか、他の教師の姿はなかった。
ハルが殺されたことはニュースにもなった。当然、宗教がらみの事件だということも明らかになっているだろう。きっと、関わりたくなかったのだろうな。
俺は母に、「先生とちょっと話があるから、先に帰ってて」と言った。母は特に何も言わず、一人歩いていった。その背中は、見たことがないくらい寂しそうだった。もし俺が屋上から飛び降りていたら、もっと悲しい顔をさせていただろうと思った。
夕暮れの中、先生と歩きながら会話した。晩秋の風が吹いて、先生の髪を揺らす。
「私は、彼女に何もしてあげられなかったわね」
「そんなことないです」
何をしたかではなく、ハルを心から心配してくれたことが大事なのだ。安城先生は滲んだ涙をごまかすかのように、空を仰いだ。それからこちらに微笑みかける。
「結城くん、また学校に来てね。待ってるから」
「はい」
俺は嘘をついた。学校にはもう行く気がなかった。その足で銀行に行って、全財産を降ろした。それを封筒に詰めて、河川敷に向かった。河川敷では、ノリさんが釣りをしていた。この人は出会ったときから変わらないな。そう思うと、なんだかホッとした。近づいていくと、こちらを見上げて目を細めた。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです。すいません、せどりの手伝い、さぼってて」
「謝るなよ。こんなとこ、来ないほうがいいんだから」
俺はノリさんの隣に座って、釣れますか、と尋ねた。ノリさんはいいや、と答えた。お前も釣るかと聞かれたので、かぶりを振って封筒を差し出した。ノリさんはちらっと封筒を見る。
「なんだ、それ」
「いつもお世話になってますし」
ノリさんは封筒の中身を見もせずに押し返した。
「しまえ、そんなもの」
「どうしてですか?」
この人はお金に困っているはずだ。だから橋の下で暮らしているんだろうし。
「誰の葬式に行ってきたんだ?」
「え……」
線香臭いからわかるのだ、とノリさんは言った。
「おまえ、なんか変なこと考えてるんだろ。悪いこと言わないからやめろ」
「何言ってるんですか」
俺は笑ったが、ノリさんは笑わなかった。ただじっと俺のことを見ていた。俺は笑うのをやめた。この人はきっと、俺の考えていることがわかるんだ。俺と同じことを考えたことがあるんだ。ノリさんはふっと目をそらした。
「おまえ、もうここに来るなよ」
「え……」
魚が餌に引っかかったのか、川面がばしゃばしゃと音を立てた。俺はタモをつかもうとしたが、ノリさんは足元の石を拾って、俺に投げつけた。その石は俺にはあたらず、肩すれすれに飛んでいった。
「邪魔くさいんだよっ、魚が逃げるだろうがっ」
その大声で魚が逃げるんじゃないか、と思った。俺は頭を下げて、足早に土手を駆け上がった。全速力で自転車を漕ぎながら、初めて会ったときもこんなふうに逃げ出したな、と思った。
宵闇の中、流れる風景を見ていたら、自分の浅はかさが笑えてきた。馬鹿だな、俺は。この金がなくたって、俺には家があって親がいるのに。貯金を誰かにあげたくらいで、死ぬ覚悟ができるはずもない。
結局、俺に死ぬ覚悟などない。一緒に死のうと約束したのに。ハルはもういないのに。
意気地のない人間に、死ぬ資格などないのだ。
ガッ。車輪に何かが引っかかったと思ったら、自転車が勢いよく横転した。
カラカラと車輪が回る音が聞こえている。俺は紺色の空を見上げた。頬を伝った涙が耳に入ってきて、ひどく不快だった。
ポケットを探ると、何か硬いものが触れた。それは、ハルに渡そうとしていた指輪だった。
俺はのろのろと起き上がり、指輪を川に放った。指輪は小さな波紋を残して水底に沈んでいく。俺は暗い川をじっと見つめた。
20万円でポーランドに行けるだろうか。歪んだ森がなかったら、ハルのあとを追おう。もし歪んだ森があったら――ひとりで生きて行こう。
ずきずきと痛む足を引きずるようにして、俺は自宅へ向かった。
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