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第四章:海の話
今となっては、あの三年間の結婚生活は俺にとって、苦い思い出でしかない。
そうだ、あんな日々のことは、もう忘れてしまった方が良い。俺は過去にではなく、今に生きるのだ。そのためには、栄養補給が必要だ。
俺は、それが過去の幻影を振り払うために必要な行為であるかのように、大きく口を開けて小魚のかき揚げバーガーにかぶりついた。
その途端、女子高生達の会話の続きが耳に入ってきた。
「でさー、見つかった時、その人、水を吸ってもうすごいぶよぶよになってて、しかも手とか足とかさんざん魚にかじりとられてて、すごいグロかったらしいよ。指なんてもうほとんど残ってなかったって」
「ひゃー」
聞き手側の女子高生は裏返った声で驚きを表明しつつもどこか面白がってる風だったが、俺は思わずむせそうになった。
なんて話を聞かせてくれるのだ。こっちは、魚を食べているんだぞ。
いや、俺が食べているのが魚か鶏か牛かなんて、あの女子高生達が知るはずもないことだが、それにしたって食事の場でするような話ではないだろう。
そんな俺の思いなど知るはずもなく、女子高生二人はその話題を続ける。
「その人さぁ、殺されて海に放り込まれたのかな?」
「さぁー、どうなんだろ? 死んでから一ヶ月くらい経ってたらしいから、死因とかよく分かんなかったみたいだけど。あー、でもリストカットの跡とかけっこうあったらしいから、自殺なんじゃないかって言われてるみたい」
俺はもう一度むせそうになった。
白いロングスカートの女、リストカット跡、それに約一ヶ月前。
……いやいや、まさか。いくらなんでも、出来すぎだろう。たまたまマックで女子高生が話していたのが、あの女のことだなんて。そんな偶然が、あるわけがない。
白いロングスカートを持っている女なんていくらでもいるし、その中にはリストカットをやってる奴だっているだろう。
そう思いつつも、俺はポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを立ち上げていた。スマートフォンを握る掌が、じっとりと汗ばんでいる。
元妻からのメッセージは、別れたあの日に非表示設定にして以来、そのままになっている。
俺は数秒間逡巡した末、設定を非表示から表示へと変更した。その途端、大量のメッセージがずらずらと並べられ、俺は思わずスマートフォンを放り投げそうになった。
『別れるなんて、嘘だよね』
『私が何度も離婚届なんて書くから、ちょっとおどかそうと思っただけだよね?』
『ねぇ、私、本当は別れるつもりなんて無かったんだよ? それくらい、分かってくれてると思ってた』
『既読がつかない……。もしかして、見てくれてないの?』
『そんなことないよね? 既読つけずに読む方法とかもあるし、そうしてるだけだよね? 私に怒ってるってアピールしたくて、そんなことしてるの?』
『そんなに怒ってるの?』
『どうして何も返事してくれないの?』
『ごめんなさい』
『ねえ、もう良いでしょ。私、反省したよ。もう十分反省したから、帰ってきてよ』
『私、毎日二人分のごはん作って待ってるんだよ』
『どうせ一人だと、またファーストフードとか、そんなのばかり食べてるんでしょ? 体に良くないよ』
『ねえ、まさか本当に、このまま終わりにしちゃうつもりなの?』
『嫌だよ』
『そんなの、嫌だよ』
『ごめんなさい』
『ねえ、いいかげん帰ってきてよ』
『謝るから』
『ごめんなさい』
『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい』
『どうして許してくれないの?』
『帰ってきてくれないと、私、死んじゃうから』
その次のメッセージには、自撮り写真が添えられていた。白い服を着ている。ただ、写っているのは上半身だけで、ロングスカートをはいているかどうかまでは分からない。
『海に来ています』
海と言っても、元妻の背後に写っていたのは、海水浴客が行くビーチなどではない。そこは、自殺の名所として知られる断崖だった。
『来てくれないと、あそこから飛び降ります。きっと来てくれるよね?』
『私、あとちょっとで崖の端だよ。ここで出てきて私を止めたら、すごいかっこいいよ。主人公みたいだよ』
『あれ、もう端に着いちゃった』
『分かった、私が飛び降りた後、ぎりぎりのところで腕をつかんでくれるんだね。それで、死ぬな、とか愛してる、とか叫びながら、引き上げてくれるんだよね』
『ロマンチストなんだから』
『じゃあ、私、今から飛び降りるね』
『ちゃんと腕、つかんでくれるよね』
『信じてるから』
それを最後に、以後、メッセージの受信は無かった。
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