台詞で出来た手紙

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 いくら思い出に浸っても、台本が書けないという状況は変わらない。変わらないどころか、だんだん心が重くなっていくのを感じた。もう、あの日々は帰ってこないのだ。困ったときに背中を押してくれる人は、もういない。悲しい時や頑張ったときに頭を撫でて甘やかしてくれる人は、二度とこの部室に訪れないのだ。  先輩は、演劇をやめた。演劇だけじゃない。話を書く事もやめた。  ――私はもう、話は書かないよ。だからこれ、私の遺作になるかもね。  そう悪戯っぽく笑った先輩に、私はみっともなく縋り付いてしまった。悲しかったのだ。先輩が卒業することはもちろん、先輩の作る世界が、ここで終わってしまったということが。先輩は、「どうして」と譫言のように繰り返す私の頭に手を伸ばし――その手を、引っ込めた。そのかわりに、情けなく震える私の手を握ってくれた。  ――この二年で、いろんな手紙を書いてきた。伝えたいことは全部を伝えたつもり。だから、もういいの。  先輩は、泣いていた。泣いていたけれど、その顔が、どこか清々しいものだったことをよく覚えている。震える肩は小さく、華奢だった。こんな小さな体に、今まで甘えてきたのか。そう思うと涙が止まらなくなって、先輩の肩を抱いて、子供のように泣きじゃくった。  二人で抱きあって、日が暮れるまで泣いたあの帰り道。  ――返事、待ってるね。  先輩は、真っ赤に泣き腫らした目を潤ませてそう言った。そうして、小さな背中を私に向け去っていったのだ。先輩の声を聴いたのは、あれが最後だった。たまにLINEはするが、通話をする機会はなかった。いや、作らなかったのだ。新たな言葉を聞いてしまったら、返事を書こうという意思すら薄れてしまう気がしていたから。  返事。先輩が残した遺作、――遺書への、返事。  それにふさわしいストーリーは、いくら頭をひねっても浮かんでこない。  ――無理だ。私にはできない。心の底から湧き上がった焦燥のままに机を殴り、立ち上がる。だって、耐えられないのだ。一人きりの部室で先輩のことを思い返す日々が、つらくて仕方がないのだ。  もし来年も、誰も入ってくれなかったら。この部活は廃部になって、先輩が残したものも、先輩の先輩が残したものも、すべて無くなってしまう。そんな可能性が、怖くて仕方ないのだ。  先輩も、こんな思いだったのだろうか。一人きりの部室で楽しかったころを思い出して、涙することがあったのだろうか。そうだったとしたら、もっとまともな手紙を残してほしかった。  たった三行だけじゃない。もっと、ちゃんとした手紙を。 「ひとりでもちゃんとやってる?台本自分で書かなきゃいけないんだから。早めにやりなよ」 「やってます。でも、なかなかうまく書けないんですよ。どうやったらうまく書けますかね」 「台本なんてさ、簡単だよ。手紙だと思って書けばいいんだから。好きなことを書きな」  台本とも言えないような、三行の台詞で出来た手紙。  四十分の劇を書いていた人だ。まさか、思いつかなくて筆を折ったなんてことはないだろう。先輩は私のことを考え、何を残すか吟味したうえでこの三つの台詞を選び、演劇をやめていったのだ。  先輩は、私に何を伝えたかったのだろう。今までの台本は、もっとわかりやすかった。「自分の意見を素直に言えるようになれ」だとか、「自分のやりたいことを見つけろ」だとか。でも、これについては理解することができない。  何度も何度も言い聞かされてきた言葉なのだ。わざわざ手紙にされなくても、しっかりと記憶している。  ――好きなことを書きな。  そんなこと言われても困る。だって、好きなことなんてわからないのだ。演劇をやっているときはいつもがむしゃらで、自分のことしか見えていなかったのだから。いや、正しくは、自分と、自分を引っ張ってくれた先輩の背中だけ。  先輩がいるところが、私の舞台だった。演劇のストーリーなんて、考えられるはずがないのだ。だって、先輩が作るストーリーが、私にとっての演劇だったのだから。  そう考えて、ふと、何かが切れる音がした。  ――手紙を書くつもりで、好きなことを書け。  そう言うなら、書いてやろう。ふと、そう開き直ってしまった。好きなことは、先輩と演技をすることだ。残したいことは、伝えたいことは、大好きな先輩との思い出だ。先輩のようにきれいな演技はできない。それでも、私は残したいのだ。あの優しい人の存在を、誰かに伝えたいのだ。  人の心が変わるのは、一瞬だ。先輩の演劇に惚れたときだってそうだった。それ以外のすべてがどうでもよくなって、それ一つだけに陶酔する、頭の悪い人間になる。  どのエピソードを入れようか。この愛情を、どう表現しようか。そう考えながらも、到底新入生には見せられないだろうな、と思った。  でも、それでいい。  新入生には、新入生宛の手紙を書けばいいのだ。演劇がいかに楽しいか。いかに私が後輩を欲しがっているかをぶつけてやろう。感動なんていらない。ただ、伝わればいい。だってこれはストーリーではなくて、手紙なのだから。 沈み切っていた心が、驚くほど急に浮かび上がっていった。自分でも、単純な奴だとは思う。でも、仕方ないのだ。先輩がいなくなって、悲しみに溺れて。そんな日々の中で、ようやく先輩に向きあうことができたのだから。 向き合うことができたのだから、次は、隣に追いつけるよう進んでいかなければならない。  先輩が卒業して、一か月半。その日、私は初めてルーズリーフにペンを走らせた。返事を書く手は、まだたどたどしい。それでも、あの三行の手紙よりは丁寧なものになるだろうと思った。
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