1人が本棚に入れています
本棚に追加
一年の春。私は、先輩の演劇に惚れた。
部活に入るつもりもなく、ただ暇を持て余していた時。中学が同じで、顔見知り程度の存在だった先輩に、演劇の助っ人を頼まれたのだ。
演劇部には、その時二年生だった先輩しか部員がいなかった。去年の三年生が引退してから、ずっとひとりで演劇をやってきたらしい。それを聞いて一番に思ったのは「演劇って一人でできるの? 」という単純かつ、純粋な疑問だった。演劇にあまり詳しいわけではないが、いくらなんでも一人でやるものではないということくらいはわかる。
普通ストーリーとは、人と人とのかかわりあいによって生まれる物だろう。主人公が思いを寄せる相手がいるからラブストーリーが生まれて、主人公のライバルがいるから、その恋は盛り上がっていく。一人では到底ストーリーなんて始まらないのだ。
もしかして、私も演技をさせられるのだろうか。そう怯える私を見て、先輩は「舞台には立たなくていいよ」と優しく笑った。
先輩の言葉通り、発表会での私の役割は、大道具として置かれた机と椅子を回収するだけだった。音をたてないように気を付けるだけの、簡単すぎる仕事。仕事をした時間よりも待機時間のほうが長かったくらいだ。退屈で仕方がなかった。
低いブザーが鳴り、大きな幕が上がる。薄暗い舞台袖に座っていた私は、ぼんやりと先輩の声を聴いていた。姿は眩しすぎて見えなかったが、かろうじて、二つの役を演じているのだということはわかった。舞台が暗くなったタイミングで机と椅子を回収し、仕事は終了。そのあとは、物音を立てないよう注意しながらもうたた寝をしていた。
出番が終わり、暇つぶしに見に行った他の高校の発表では、大道具は豪華で、役者もたくさんいた。それでも、特に心は動かされなかったように思う。その時の私は、イメージ通りの演劇が繰り広げられるのを、ただ無感動に見つめているだけだった。手伝うくらいならいいが、入部したいとは思えない。所詮、高校生が作った劇だ。眠たい展開にあくびを漏らしながらそう考えていたのを、先輩は見抜いていたのだろう。
実際、その時はまだ、先輩の演劇をよくわかっていなかったのだ。
発表会から数日後。
少し遅くに来てほしいと頼み込まれ、私は渋々ながらもそれを承諾した。集合時間に定められたのは、ほとんどの部活が終わるような時間だった。運動部の熱が少しだけ残っている、静かで薄暗い体育館。そこのステージに先輩は立っており、こちらを見て大きく手を振っていた。青い指定ジャージが後ろの黒幕と同化し、肌の部分だけが真っ白に見える。
何をするつもりだろう。そう首を捻ると、体育館の真ん中に置かれた椅子が目に入った。「そこ、座って! 」先輩の良く通る声にそう促され、戸惑いながらもその椅子に腰かける。
すると、腹の底に響くような、低いブザーが鳴り響いた。
その音に驚き肩を揺らしつつも、舞台上の先輩を見る。先輩は穏やかに微笑み、突然のことに混乱している私を眺めていた。
――いつもの先輩と違う。
漠然とした違和感を抱きながらも、その美しい笑みに引き込まれ、目が離せない。
私が呆然としていると、舞台上のライトは徐々に消えていき、真っ暗な舞台に、先輩の残像が映った。
演劇部の体験として呼ばれ、先輩があそこに立っている。それはつまり、今から演劇をやって見せるということなのだろう。うちの体育館には幕がないため、ライトが付いた瞬間が始まりということだ。自然と、胸が高鳴っていくのを感じる。楽しみなようで、それでいて恐ろしいような不思議な高揚。
一瞬にも永遠にも感じられる暗転が明けると、そこに先輩はいなかった。
いや、先輩がいなかったと言うと語弊がある。正しく言うと、そこにいる人物が、先輩ではないように見えたのだ。先輩と同じ容姿をした別の人物。
あの優しくて穏やかだった先輩は、少し荒んだ、反抗期の女子高生へと姿を変えていた。
彼女は、まだ何も喋っていない。それでも、そうわかるのだ。
少しの間流れた沈黙に、思わず息を飲んだ。明かりが点ききって、舞台上の少女が語りだす。
――援助交際をしている。
一言目は、そんな告白だった。普段の先輩からは考えられないような単語。でも、舞台上の少女の言葉には、妙な説得力がある。話が進むにつれ彼女は、先生だったり友達だったりと、そこにはいない誰かと会話をしていた。
そこにいない誰かと会話をし、それに影響されて、スポットライトの真ん中で、自分の心情を吐露している。
舞台上でなければ、不審にさえ見える動きだろう。だが、彼女は違う。彼女は実に美しく、現実味を伴ってそこに存在していた。
ただ、興味があっただけ。自分なんてどうでもよかった。そんな、普段なら絶対共感できないような意見にさえ、まっすぐに耳を傾けてしまう。
彼女の言葉は、本心ではない。根拠はないが、なぜかそう確信していた。
本当は、一人になりたくないだけだ。愛されたい。実際、彼女がそう口にしたわけ絵はない。それでも仕草や表情から、一人で悩み続けてきた彼女の葛藤が痛いくらいに伝わってきた。
彼女の告白が終わると、光は消え、不気味なくらいの静けさと暗闇に身を包まれた。少女も、こんな気分だったのだろうか。ただ照明が落ちただけだというのに、そんな不安に襲われる。
ふと、舞台上から物音がした。きっと、椅子と机をよけているのだろう。発表会で、私がしていた役割だ。ふと我に返り、固まった首をほぐすように回す。体の感覚を忘れてしまうくらい、私は演劇に見入っていたらしい。演劇に、こんなに心を揺さぶられるなんて。そう驚き、感動すら覚えていた私の背を押すように、舞台の照明が灯った。
その時目に入ったのは、先程よりもさらに衝撃的な光景だった。先ほどまで援助交際をしている少女だった先輩は、明かりが点いた途端、その少女のお母さんになっていたのだ。見た目は変わらないのに、確かに年を取っている。もはや、演劇を見ているというより、マジックショーを見ているような心地だった。
すべてが、初めてだったのだ。人が変わる瞬間を見るのも、作り話に心を打たれるのも。
話は進み、母が、少女に正直な気持ちを伝えるシーン。気づくと、私は涙を流していた。母と少女、どちらに共感していたのかはわからない。それでも、苦しいくらいに積み重ねられた感傷が、癒されていくのを感じたのだ。
あっという間に舞台は終わり、体育館全体の照明が点灯した。眩しさに目を細めつつも、熱くなった目頭を軽く擦る。しばらくして舞台から降りてきたのは、いつもと変わらない笑みを浮かべている先輩だった。
「面白かったです」と情けなく上ずった声で言うと、先輩は「ありがとう」と笑い私の頭を撫でてくれた。確かに、先輩だ。母でも、少女でもない。そう思うと不思議と涙が湧いてきて、みっともなく泣き出してしまった。
焦った様子で私を慰める先輩が、涙でぼやけていく。次第に、ただ感動しているだけだとわかってくれたのだろう。困ったように眉を下げ笑った先輩は「感受性強いね、やっぱり、演劇向いてるよ」と言って、頭を撫で続けてくれた。
最初のコメントを投稿しよう!