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中山道の出会い
江戸、天明の頃。この日は九月にしては暑く、中山道をあてもなく歩いていた早太郎は、降り注ぐ日差しに汗だくになっていた。歳は十四。若い肌に、汗が幾筋もの跡をつくって滴り落ちる。
彼は商屋の長男であるが、金勘定に興味が湧かず、家を継ぐためのような日常から逃げ出したのだ。いわば、家出である。家を飛び出して三日になるが、足は筋肉痛で思うように動かない。
「とにかく、田舎へ行きたい」
そんなことを、ぼんやりと考えている。静かな村で、将来のことをゆっくりと考えたい。甘やかされて育った故か、見通しの甘い考えだった。懐には、今までの小遣いを貯めた金が二両ばかり。見知らぬ土地で生活をするのに、十分な金額ではない。
昼下がり。人里から離れ、森を切り開いたような道に入った。木々のおかげで日が遮られ、いささか暑さが和らいだ。
一息ついたのもつかの間、向こう側から、必死の形相で侍が走ってくるのが見えた。旅装束も泥で汚れ、ところどころ破れている。
驚いて、早太郎は思わず木の陰に隠れた。
侍が走ってくる。そして、彼が隠れる木の側まで来たところで、転倒してしまった。力のない呻きが聞こえる。見れば、侍は満身創痍といった様子で、汚れだと見えていたのは血の痕で、破れているのは斬られたのが理由らしかった。
思わず、
「大丈夫ですか?」
飛び出して声をかけてしまう。育ちの良さが、こういう場面で出てしまうのだ。
細腕に抱えられた侍は目をうっすらと開けて早太郎を見ると、苦しそうに顔を歪めながら、懐から手紙らしきものを取り出した。
「見ず知らずの方に頼むべきではないことは承知していますが、どうかこれを、沼木藩邸へ届けていただけませんか……」
「なんです、これは?」
「沼木藩を救う密書です。これを、藩士の仁志景次郎に。私はもう、駄目そうだ」
咳。血の塊が吐き出された。侍の背中に回した手が生暖かい液体で濡れてくるのを、早太郎は感じた。手の中で、急速に侍の体温が消えていく。
「沼木藩、仁志景次郎……」
早太郎が呟くように反芻すると、侍は微かに頷いて、息絶えた。侍の手から、手紙が落ちる。
「もし、もし!」
身体を揺するも、反応はない。親類の死にすら、ほとんど居合わせたことのない早太郎は、血の感触も合わさって、胃からこみ上げてくるものを感じた。それでも力を込めて耐え、静かに侍を地に横たえた。それから、手ぬぐいで拭った手で手紙を拾う。
どうすべきか。
何を、もはっきりしないまま、胸の内で呟いた。考える暇もなく、複数の足音が聞こえてきた。侍が走ってきた方だ。早太郎は手紙を懐へしまうと、また木陰に隠れた。
足音の主は、これもまた侍たちだった。四人いる。一人は弓を持っていた。彼らは侍の死体を囲むようにしてしゃがみ込み、死体の持ち物を調べ始めた。
「ないな」
「確かに、こいつが持っているはずだが」
「誰かに託したのか、それとも、金目の物と思われて、物取りに取られたか」
「財布はある。その線はない」
あれこれと話す声は、低く、そして粘っこい。殺気のような気配が迫ってくる気がして、先ほど耐えたものが、また胃から上ってきた。今度は、耐えられなかった。
「誰だ!」
音を聞いた侍たちが、早太郎を取り囲んだ。吐瀉物が口元に残る彼を、侍たちは半笑いで見ている。
「子どもじゃないか。お前、あの男から何か受け取ったな?」
首を振る。まだ声が出せない。
「嘘をついても、為にならんぞ」
一人が刀を抜いた。暗い影の中で、その白刃はぬらりと輝いた。
それでも、早太郎は首を振った。眼に気が込められている。
「別に、しゃべらんでもいいか」
舌打ちをし、刀を振り上げる。やられるな。そう思ったとき、
「やめんか!」
道の方から叫ぶ声がした。老人だった。総髪は白いが量は豊かで、背筋もぴんとしている。体躯は細いが、引き締まっているように見える。
「子ども相手に四人で、武士ならば恥を知れ!」
芯のある、重い声だ。
四人が道へ出て行き、老人を囲んだ。刀を抜いていた侍はそのまま上段に構え、他は柄に手をやった。
「死にたくなければ、このまま通り過ぎろ」
「ふん。もう長くない余生、貴様らのような卑怯者に指図されたくはない」
「無礼な!」
刀が振り下ろされた。が、それを老人は足の運びだけで躱し、懐から懐紙を四つ折りにしたものを出した。それを開く。夕焼けのような赤色をした粉末が、懐紙に載っていた。それを口元へ持って行き、ふっと吹く。粉末は辺りに飛散した。
「うっ!」
侍たちが、目を押さえて呻き始めた。粉末が目に入ったらしいが、全員酷い苦しみようだ。
「なんだ、これは!」
目も開けられないまま怒鳴る。
「毒だ。目に入れば視力を失う」
老人は目をつむり、袖で口元を隠しながら淡々と言った。
「なんだと!」
侍たちはどうにか粉末を洗い流そうと、竹筒の水で目を洗い始めた。どたばたと、威厳のない姿だ。
老人はふっと笑うと目を閉じたまま振り返り、歩き始めた。早太郎が歩いてきた方角、つまり江戸への道だ。
早太郎は薄目を開けながら、その背中を追った。いつの間にか声が出るようになっていたので、
「待ってください」
呼び止めると、老人は彼に顔を向けた。もう、眼は開いていた。
「ありがとうございました」
「なに、礼を言われるようなことじゃない。それより、何故襲われていたんだね?」
歩きながら聞いてきた。穏やかな顔をしていた。
早太郎が経緯を説明すると、
「密書だな。それも人を殺すほどとなると、よほど重大な内容らしい。厄介なものを受け取ったようだね」
「ええ。ですが俺、ちゃんと届けようと思います」
「それは、危険だ。この先、また追っ手が現れるかもしれない」
「分かっています。ですけど、死に際の頼みですから」
早太郎の眼には恐怖が滲んでいる。声も、どこか震えていた。それでも、幼さすら感じられた顔に、男らしい覚悟の色が見て取れるようになっている。
老人は仕方なさそうに頷き、
「義理とやらは、大事にした方がいい。だが、このまま一人で行かせるのは心配だ。私が、江戸まで供をしよう」
「いいんですか?」
「ああ。どうせ江戸に行くところだったから、丁度いい」
「それはありがたいです。実は俺も、一人で藩の屋敷に行けるか不安で」
はっは、と老人が笑った。決まりだな。
「私は、十幻。薬の行商をやっていてね。江戸の薬種問屋に、薬を仕入れに行くところなんだ」
「俺は早太郎といいます。でも、薬屋さんがどうして、毒なんかを?」
おそるおそる尋ねると、十幻はまた笑った。
「いや、あれは毒ではない。唐辛子さ」
「え?」
「一人旅をしていると、危ないこともあるからな。護身用に持ってるんだ。下手に刃物を使うより、手っ取り早く片付いたろう?」
「はは……」
得意げに笑う十幻に、早太郎は苦笑した。だが、その旅慣れした姿は頼もしい限りだ。
「よろしく、お願いします」
頭を下げると、
「うむ」
十幻は深く頷いた。
目的に乏しい旅に、確かな道筋が生まれた。それだけで嬉しかった。名前も知らない侍が命を賭した手紙は、今も早太郎の温かな懐にしまわれている。
日が落ちかけ、ようやく風が秋らしくなりつつあった。
二人の進む右手には、鮮血のような茜色が空を染めている。
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