別れにコーヒーを、出会いにジンジャーシロップを

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太陽が沈まない季節に入った初日。ビョルンスティエルネ・ヴィクトールソンはピョンヌキョクールを焼き、それにキャベツやスキールをのせて食べた。昨日は夜勤明けの休日で一日かけて羊肉と(サーモン)を冷燻し、その傍らキョットスーパを作った。ビョルンスティエルネの親代わりだったヨハンナは羊肉に加えカブ、ニンジン、キャベツ、ジャガイモをあるだけ入れたが、ビョルンスティエルネはカブとキャベツを入れないで作る。カブとキャベツは家の畑で作っていた数少ない野菜で家に常備されていた。この二つをスープの中に見ると、貧しかった子ども時代を思い出す。 食器を流し場に入れようとした時、スキールを掬ったスプールがつるりと皿から落ちて音をたてた。それを拾おうとした屈み、顔を上げたら布を被せたコーヒーメーカーと目が合った。長く使っていない、ただの機械。それを見ると息子のエイリークが出奔した日を思い出す。飛び交う大声に床とビョルンスティエルネの顔にぶちまけられたブラック・コーヒー。あの日以来、アパートでコーヒーを飲まなくなった。コーヒーはオフィスで飲む。 レイキャビク市警に行くと今風の若者を体現したようなアルマウェル・エイナルソンが「あ、警部(レーグレグラン)!」と電話から顔を上げた。「先刻(さっき)日本のアイスランド大使館から電話がかかって来てその……」アルマウェルのモデル顔が言いにくそうに歪んで視線が逸れた。 「"その……"がなんだ」 「その……息子さん、確かエイリークって仰いませんでしたか?」 心臓がぐわんと嫌な揺れ方をした。ビョルンスティエルネの息子(ソン)という意味なら確かにエイリークは息子であり、五年前に口論したのを最後に家を出ていった。エイリークのいない五年は何の写真の入っていないアルバムで本棚を占拠するようなものだ。 「それがなんだ」 「エイリークさん、北海道(ホッカイドウ)富良野(フラノ)に住んでいたそうでその警察から二日前に……交通事故に遭って亡くなったと……唯一の身内はビョルンスティエルネだけだから遺体や遺品を引き取って欲しいと……」
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