在位九日の少女王の恋 ~A Tribute to (※)Lady Jane Grey~

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 人生最期の日に見るのがこんな光景だなんて、この世界はどこまでも残酷だ。  つい数十分前には自分の足で歩いて刑場へ向かった貴方が、今はもう物言わぬ(むくろ)となって塀の中に戻ってきた。  見たくはなかったのに、見てしまった。貴方が去って行った後も、私はずっと、この窓を離れられずにいたから。  叫びが、喉を()いて出る。あと何十分後かには役目を終えるはずの私の心臓が、断末魔のもがきのように胸の内側で激しく暴れ狂う。  覚悟はできていたつもりだった。心静かにその時を迎えるはずだった。  けれど所詮、そんな「つもり」の覚悟など、その時になってみなければ分からないものなのだと思い知る。  ――この世界に、もう貴方はいない。そのことがこんなにも、心を打ちのめす。  もう二度と、その笑顔を見ることも、ぬくもりを感じることもできない。  こんなことなら昨日、一目でも会っておくのだったと、今さらながらに後悔する。  唯一の救いは、貴方のいないこの世界に、それほど長く耐えなくて良いということ。  次は、私の番(・・・)だから。もうすぐ、また貴方に会えるから……。    思えば私の運命は、私の思うままになってくれたことなどほとんど無い。結婚についてもそうだった。  歳の近い若き王の妃にさえなれるよう、両親は私を厳しく教育した。妃の座が無理と分かると、今度は国で一番権力を持っていた護国卿の息子と婚約させた。私より妹との方がつり合いがとれるような二歳年下の男の子で、政略のための婚約ではあったけれど、私は『たとえ政略から始まったものでも、真の愛情へと育てていけば良いのだ」と、文通で心通わせる努力をしてきた。  それなのに――彼の父親が政敵の罠にはまり処刑されると、両親はあっさりその婚約を破棄した。その上、次の相手に決まったのは、彼の父を死に追いやったその政敵の息子だった。  それまでの努力と一から築き上げた絆を無にされた哀しみ、そして元許嫁の仇の家へあっさり鞍替えした両親の厚顔無恥ぶりに、私は絶望した。  貴方と結婚したのは、そんな鬱屈をまだ(ぬぐ)えずにいた、15歳の5月の聖霊降臨祭の日のことだった。    ――政略から始まった恋でも、真の愛情へと変えていけばいい。  その信条(ポリシー)は変わっていなかったから、私は貴方を愛する“努力”をしようと思った。  でも、好きになれる気がしなかった。心の整理もつかないのに、貴方を受け入れられる気がしなかった。  ――そんな時に、思いがけない事件が起きた。    結婚披露宴の料理人が食材を間違え、貴方を含む幾人かが腹痛に倒れた。  苦しむ貴方に、私は妻として声をかけた。特に愛情からというわけでもなく、人としての義務のように、病人を気遣っただけだった。  貴方は初め、驚いたような顔をした。その後、青ざめた顔で笑みを浮かべた。痛みに引きつった、けれど心から嬉しそうな、子どものような笑みだった。  その顔を見た瞬間、胸がきゅっと引き絞られるような感覚を味わった。切ないような、苦しいような、それでいてどこか甘くさえ感じる、初めての感覚。  私はただ、妻の“形”を演じようとしただけだった。貴方を愛する“フリ”をしようとしただけなのに……貴方は、そうやって“フリ”だけで済ませるには、あまりにも素直で無邪気で憎めない人だった。    貴方は、正直に言って頼りになるタイプではない。私よりいくつか年上のはずなのに、私よりずっと子どもっぽいところがあるし、周りに流されやすいところがある。  背が高くて顔立ちも綺麗だから、きっと今まで女性からちやほやされてきたのだろうけれど、恋の駆け引きの“形”ばかり知っていて、本当の愛や恋を、たぶん知らない。思わせぶりな態度で私を翻弄しようとして、けれど私が理想の反応を返さないでいると、貴方はいちいち「あれ?」と戸惑った顔をする。  最初は妻に対してなんて不躾(ぶしつけ)な態度なのかと苛立(いらだ)ったものだけど、そのうちに気づいた。  形は間違っていても、貴方は貴方なりに、私と距離を縮めようとしてくれているのだと。貴方の目は“お飾りの妻”でも“その他大勢の女のうちの一人”でもなく、確かに“私”を見つめてくれているのだと……。    貴方は狩りや外での遊びより芸術を愛しているところが、本好きな私と少し似ていた。両親や妹たちでさえ退屈がって聞きたがらない、私の好きなギリシャ哲学の話を、貴方はつまらなそうな顔もせず、ずっと聞いていてくれた。  野心家の義父やプライドの高過ぎる義母のことはどうしても好きになれなかったけれど、改めて向き合ってみれば、貴方は決して悪い人ではない。それどころか、こんな時代にあっては危ういくらいに優しい人だった。  貴族だからと偉ぶったところが、貴方にはまるで無い。身分違いの平民に対しても分け隔てなく接しようとする。  ささいな理由を見つけては他人を見下そうとする人の多い中、それがどれだけ得難い性質か、私には分かっていた。    いつしか、貴方と“本当の夫婦”になりたいと思うようになっていた。真の愛情で結ばれたいと思った。  貴方が私に向けてくれる笑顔が好きだった。  屋敷に帰って来て私を見つけると、貴方は本当に嬉しそうに笑ってくれる。宝物を見つけた子どものように、どこか幼く無邪気な顔で……。  そんな顔を向けられたのは初めてだった。私という存在を、丸ごと受け入れてもらえているような気がした。  貴方のそれが愛や恋だったのか、それとも人懐こい貴方が私に馴染んでくれただけだったのか、私には分からない。けれど、それが何であれ、真実の愛に育てていけば良いのだと、そんなほのかな希望を、あの頃は持っていられた……。    全てが狂い始めたのは、貴方と結婚して2ヶ月も経たない頃だった。  国王が16歳の若さで崩御し、その後継が私だと告げられた。国王が病床で(したた)めた遺言に、私の名が記されていたと……。  私は混乱し、足元が崩れていくような恐怖を感じた。  これは、王位の簒奪(さんだつ)だ。貴方の父――私の義父となった公爵が、私を傀儡として権力を握ろうとしているのだ。  私は王家の血を引いているとは言え傍系の家柄。王位継承順で言えば、私よりずっと血の近い姫君が二人もいる。それなのに彼女たちを押しのけて私が女王になるなど……普通に考えて、廷臣にも国民にも認めてもらえるはずがない。    私は周りの大人たちに必死に抵抗した。何とか、これが間違っていることだと分かってもらおうとした。けれど、全て徒労に終わった。  そもそも皆、正しいか間違っているかなど、どうでも良いのだ。ただ自分たちの立場を守りたい、少しでも有利なものにしたい――それだけなのだ。  これまで私は自分の心と知恵を養うための本を、貪るように読んできた。周りの人々が好色な娯楽本に興じる中、自分はなんと高尚で深い人生の真理を学んでいるのかと、密かな優越感に浸っていたことさえある。  ――けれど、私の積んできた教養は、誰の心ひとつ動かすことができなかった。いつか私の助けになってくれると信じて学んできた知識は、人生を左右する大事な場面で、何の役にも立ってくれなかった。    誰より近い存在であるはずの貴方さえ、私の味方ではなかった。  ――いいえ。きっと貴方は、私が何を考えているのか、何に(おび)えているのかを、全く理解できなかっただけ……。    貴方は私が女王になることを喜んだ。さらには単に女王の夫――王配となるだけではなく、自らも王冠をかぶることを望んだ。  けれど貴方のその望みは、私がこの手で断ち切った。私は、貴方だけはこの地位に就けたくなかった。むしろ王位から少しでも離れた所に置いておきたかった。    王に即位することを知らされた時、私の頭に一つのギリシャ故事が浮かんでいた。  “ダモクレスの剣”――玉座の上には鋭利な剣が髪の毛ほどの細い糸で吊るされていて、そこに座る者の命を常に狙っている。  貴方は、とてもではないけれど、何事も無く玉座に座り続けられる器ではない。貴方は良くも悪くも素直だから、きっと貴方の両親や兄たちに、いいように言いくるめられ操られてしまう。その結果、臣下や国民の不信や不満が(つの)ったとして、その矛先が向かうのは元凶の両親たちではなく、“王”という分かりやすい象徴なのだ。   「王位なんて、貴方が考えているほど素晴らしいものでの何でもない」――貴方に分かって欲しくて言葉を尽くしたけれど、貴方には全く理解されなかった。  貴方は不思議そうに首を(かし)げるばかりで、私の言いたいことをまるで分かってくれない。  そもそも貴方と私とでは、王位に対する考え方が初めから違っている。王の肩に乗る責務にばかり目が行く私と違い、貴方は王になれば得られる特権ばかりに目が向いている。見ている方向が違うのだから、話が合うはずもなかった。    貴方の即位を認めなかったことを、貴方は“嫌がらせ”と捉えたかも知れない。私のことを、嫌いになってしまったかも知れない。それでも私は、貴方を危険な地位には就けたくなかった。  けれど、私のそんな望みは、もちろん誰からも理解されなかった。義母は私を「冷たい」と非難し、貴方を実家へ連れ帰ろうとした。それを私は女王としての威厳でもって引き留めた。  女王即位でさえ周りに流され引き受けてしまった私が、義理とは言え母親に対し、はっきりと否定の言葉を言って従わせる――周囲は驚いていたし、貴方も驚いた顔をしていた。けれど実を言うと、一番驚いていたのは私自身かも知れない。  もう貴方に嫌われてしまったかも知れないのに、身体だけそばに留め置いてどうしようと言うのだろう。……私自身にさえ、分からなかった。  貴方は、どう思ったでしょうね。貴方から王冠を取り上げておきながら、夫としてそばには置きたがる、一見矛盾した私の言動を……。    貴方が私の元を去るのを止めて――けれど、私が抵抗できたのはそこまでだった。  後はもう、即位はしても実際に頭に王冠を載せることだけは断固として拒否したり、重臣たちの会議に顔を出さなかったりと、女王即位が本意でないことをアピールするのがせいぜいだった。  けれど、今になって思う。もしもあの時、私が運命を受け入れ、せめて善き女王となれるよう堂々と振る舞っていたなら、この結末は変えられたのだろうか、と。  私は、ただ罪を背負うのが恐ろしくて逃げ回っていただけだったのかも知れない。その結果、私だけならまだしも、貴方までをも、この不幸な結末に導いてしまった。  それとも、あの時私がどう足掻(あが)いたところで運命は初めから決まっていて、何も変わらなかったのだろうか……。    当初私が恐れた通り、次期女王となるはずだった姫君は、自らの正当性を示すために挙兵した。  女王の座にまだ慣れもしないうちに、望まぬ戦いが始まる……。  経験も覚悟も無い私に戦の指揮など()れるはずもなかった。それどころか、感情的になって戦況を乱しただけだったかも知れない。  大将として戦に出ようとする父を、私は取り乱して引き留めた。  大将ともなれば、戦に敗れた時には確実に責任を負わされる。ここで行かせては二度と父に会えないと思ったのだ。  その一方で、貴方を王城から出して領地へ送った。万が一の時、どうにか貴方だけは逃げ延びて欲しいと一縷(いちる)の望みを抱いてのことだったが、そんな儚い願いも、“正当なる女王”の勢いの前に無残に打ち砕かれた。  私たちは、戦いに敗れ捕らわれた。生きるも死ぬも勝者の気持ちひとつ――そんな立場に突き落とされたのだ。    私の在位はたったの九日で終わった。けれど、元から望まぬ地位だったのだから、そのことはべつに構わない。  王冠を奪った反逆者として死刑を言い渡されるのも、捕らえられた時に既に予測はついていた。だから、裁判でそれを告げられた時も動揺することはなかった。  私は、自分が罪に値することをしたとは思わない。けれど、それでも罪に問われ処刑されることもあるのだと、とうの昔に知っている。  それは、私の愛読書であるギリシャ哲学の本から学んだことだ。  古代ギリシャの哲人ソクラテスは、ただ世の中を善くしたい一心で、人々の無知を暴いて回った。しかしそのことで権力者の恨みを買い、裁判の末に毒殺刑に処せられた。  彼は己を偽って権力者に(おもね)った生き方をすることも、裁きに背いて逃亡することも拒み、自らすすんで死を受け入れた。  その生き様、死に様に感銘を受けた私は、いつか自分の死に際しても、彼のように誇り高く逝きたいと思ったものだ。――それを実践するのが、こんなにも早くだとは思いもしなかったが……。  私には、死に際する覚悟がある。けれど、きっと貴方は違う。  死刑宣告に打ちひしがれ怯える貴方を、私は何と言って慰めれば良いのか分からなかった。    王族である私は罪人とは言え、牢ではなく、牢獄の看守が住まう住居と二人の侍女をあてがわれ、人間らしい毎日を送ることができた。  新女王となった姫君は、私がやむなく謀略に巻き込まれたことを理解し、同情してくれていたのだろう。  そのまま行けば、もしかして恩赦で命を永らえる可能性もあったのかも知れない。けれど、そうはならなかった。  罪を免れ自由の身となっていた私の父が、今度は自ら首謀者の一人となり、新女王に対し反乱を起こしたからだ。    一度敗戦した相手に、より不利な立場で再び挑む無謀さの理由が、私にはよく分からない。  信仰の異なる新女王の政策がよほど不満だったのか、彼女の進める大国との縁談がよほど脅威と映ったのか……それとも、新女王を倒せば私を救えると、ほんのわずかでも思ってくれていたのか……。  けれど結局はその行動が、私の死を決定的なものとした。  反乱は失敗に終わり、新女王は私と貴方の死刑執行令状にサインした。    新教から旧教へ改宗すれば命を助けてくれると、新女王は言ったけれど、私はそうまでして生き永らえるつもりはなかった。  かつてソクラテスがそうしたように、自分を曲げて生きるより、自分を貫いたまま潔く死を選びたい。  自分自身のことならば、そんな風に覚悟はできていた。――できている、つもりだった。    昨日、貴方は最期に一目、私に会いたいと言ってきた。けれど私は「会っても辛くなるだけだから」と拒否した。  同じ罪で捕らわれたのに、貴方と私とでは随分と待遇が違ってしまっていた。  れっきとした“住居”に入れてもらえた私と違い、貴方は牢獄の塔の最上階の小部屋に閉じ込められた。  最期の時でさえ、塀の外で公開処刑される貴方とは違い、私は特別な貴人だけが許される塀の中の広場での処刑が決まっている。この格差を、貴方はどう思っているのか……。  貴方はきっと、己の死を嘆き悲しむ。けれど、既に死への覚悟のついた私は、その気持ちを分かち合えない。どんな言葉で慰めれば良いかも分からない。  貴方は私のことを『冷たい女だ』と幻滅するかも知れない。『どうせ死んでしまうのなら、あの時、王冠をくれれば良かったのに』と恨み言を言われるかも知れない。  死を前に絶望した貴方が、今の(・・)私をどう思うのか、想像がつかない。貴方の態度次第では、これまでの優しい思い出さえ、崩されてしまうかも知れない。    それに、もし素直に再会を喜び合うことができたとしても、それは(つか)の間のこと。  どんなに離れ(がた)くても強制的に引き離され、それはこの世での永遠の別離となる。そんな残酷は別れを味わって、心乱さすにいられるはずがない。  それではとても、心安らかに処刑の時を迎えることなどできはしない。  死後の国で、また会えるのだから――そう自分に言い訳をして、私は貴方と会うのを拒んだ。そのことを今、後悔している。    貴方は、どんなに心細かったことでしょう。どんなに恐く、悲しかったことでしょう。  慰めの言葉が思いつけなくても、ただ貴方のために泣いてあげれば良かった。  同じ気持ちを分かち合うことができなくても、ただ一緒にいてあげれば良かった。  私は、自分の心が乱されることを恐れて、貴方の最期の願いを拒んだ。私を傷つけることのない優しい思い出だけを抱えて、現在(いま)の貴方を拒んだ。  そのことが、今になって私の胸を(さいな)む。    死への覚悟はついているはずだった。なのに、貴方を喪って独りを実感した途端――貴方の死を目の当たりにした途端、足元から凍りついていくように、冷たい恐怖が()い上ってくる。  こんな恐さを、貴方も感じていたのかしら。こんな恐怖を抱えたまま、独りで逝かせてしまったのかしら。  どの道、こんな風に心乱されるなら、一目会っておけば良かった。    もうすぐ、私の番が来る。時を告げるために、ドアが叩かれる。  先ほどまでとは違う意味で、胸が震える。今、無性に貴方の笑顔が見たい。  もう、私の記憶の中にしかない眩しい笑顔を眼裏に浮かべながら、私は誇り高い最期を遂げるため、騒ぐ胸を鎮めるために、大きくひとつ、息を吸った。  
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