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湯島小鞠は、辻橋至(つじはしいたる)が好きだ。恋をしている。しかし、それは数学教師である辻橋に対してではない。十年前にマンションの隣の部屋に越してきた、優しくて恰好いいお兄さんである至が好きなのだ。
学校で顔を合わせる彼は、冷たいやら厳しいやらで、むしろ大嫌いだ。就職を機に実家を出てしまった至が教員として勤めている高校に進学し、小鞠は入学当初、浮かれまくっていたのだが、実際に教師として働いていてる至と接し、がっかりした。いや、絶望した。
至は、それまで小鞠が見知っていた彼とは全く違った。よそよそしく、冷たく、厳しく、偉そうで、これはこれでクールでいいかもと思わなくも……いやいや、小鞠の長年愛する「お隣のお兄さん」としての彼では無かった。
授業中に拾われたハートには、その形の愛らしさに反して中には彼に対する罵詈雑言がたっぷりと書き込まれており、当然、至本人に見られる訳にはいかなかった。飲み込んだのは、自分でもやり過ぎだったと思うが…。
それはさておき、小鞠が学校での彼を憎たらしく思うのも、結局は熱烈な愛情の裏返しに他ならないのだ。だから、その知らせは小鞠にかなりのショックを与えた。
「至くん、結婚するんだってな」
夕食の席で父親がそう口にした瞬間、小鞠は両親はじめダイニングルームに存在するなにもかもが、自分から遠のいていった気がした。
「さっき、辻橋さんちのご主人とエレベーターで一緒になった時に聞いたんだ。至くんも20台後半だっていうし、そういう年頃になったんだなぁ。隣にあちらの一家が引っ越してきた時には、まだ彼も中学生だったのに。小鞠も高校生になったんだから、そりゃそうなんだけど」
何もわかってない父が愛娘に機嫌よく言うのを、事情をあらかた知っている母が気遣わし気に見た。小鞠は父親に余計な勘ぐりをされぬよう、精一杯に平静を装った。
「…大学の時から付き合ってる彼女、いるとか言ってたよね。その人かな?」
「そうらしいぞ。相手の方が年上でもう三十だっていうんで、ようやくけじめをつけてくれたとかって、お隣のご主人も一安心してたなぁ」
人の表情を読むのが苦手な父は、娘の動揺に気付くことはなかった。
その晩、小鞠は眠ることができなかった。
数年前、久しぶりにマンションの廊下で至を見かけた小鞠が彼に駆け寄ると、至の隣に一人の女性が立っていた。その時はその時で、それなりにショックを受けた。特にその女性から、完全に子供扱いされたことに。
しかし、それ以前にも至には別の彼女が存在していたことを小鞠は聞いていたことがあり、そこまで落ち込みはしなかった。それは、その時の小鞠がまだ小学生だったからかもしれない。
今度の至の結婚は、決定的だ。
小鞠が高校一年生になった今でも、至にとって自分は子供過ぎるのだろうということは、感じている。それでも、今は初恋を続けることの猶予期間なのだと、心の底では思っていたのかもしれない。
その期間はもう間もなく、終わるのだ。
小鞠からの好意はとっくに伝わっているだろう。しかし、きっとそれは親愛としか、思われていない。言ったところで何にもならない事はわかっているが、今が、想いを伝える最後のチャンスかもしれない。
その晩のうちに一旦は結論を出したものの、それから一週間、小鞠は迷い続けた。迷って、迷って…しかし結局、十月終わりの深夜に覚悟を決め、茶色いインクのボールペンを手に取った。
気軽に渡せばいいのだ。封筒なんか使わず、いかにも普段通りという体裁で。しかし、授業中の手紙に使ったノートの切れ端ではない。引き出しの奥にあった便箋に、何度も書き直し反故を何枚も生み出し、したためた。
形は、あの時と同じハートでも、これは違うのだ。
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