ハート

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 その日、小鞠は、いつもはこんなに遅くまで部活動をしないのにと、他の部員に訝しがられながらも美術室で時間を潰した後、昇降口に向かい、職員用玄関が見える場所で、じっと愛しい形が現われるのを待った。  至が顧問を務める部の活動が今日は休みであることを、小鞠は予め調べて知っていたが、彼は小鞠が昇降口に下りてから一時間経っても玄関から出てこず、小鞠が今日はその日ではないのかもしれないと諦めかけた時になって、ようやく姿を見せた。  小鞠が猛ダッシュで駆け寄ると、至はその勢いに気圧された様子ではあったが、勤務を終えたからなのか、表情は柔らかかった。 「こんな時間までいたのか。湯島は美術部だったか?文化部も、結構頑張ってんのな」 「いっ…先生は、これから帰るんですか」 「ん、ああ」 「私も、帰ります」  別れの挨拶を言わせないよう、走ってきた勢いのまま小鞠は言った。  学校から駅までは十分程度歩く。それまでは、小鞠は至と二人きりだ。だが、駅前は賑やか過ぎて、とても落ち着いて手紙を渡せそうにもない。  今、渡そう。学校と駅とのちょうど真ん中あたりにある大きな交差点を渡り終えた時、小鞠は立ち止まり、汗が滲んだ手でブレザーのポケットからハート型の手紙を取り出した。  相槌が遠くなったのに気が付いた至が振り返り、どうしたという表情で小鞠を見た。 「あ、あの…」  街灯に白っぽく照らされた至の顔を見た途端、小鞠の決心した気持ちが、急激に萎えてきた。渡す時にどう渡すか、どんな反応をされるか、それこそ何回も、何時間も頭の中でシミュレーションしてきた。だが、いまのこれはリアルなのだと、唐突に圧倒させられた。  どうにもならない相手に、気持ちを打ち明けて何になるのだろう。いや、気持ちを伝えてしまえば、自分の気もいくらか収まるだろう。そういうつもりだったのだ。だが、果たしてそんなことが、あり得るだろうか。  長い間、ずっと好きな人だ。幼い憧れから始まりはしたが、今まで他の誰かに惹かれることもなく人生を過ごしてきた。それぐらい好きなのに、ここで思いを伝えただけで自分の気持ちが切り替えられるとは、とても思えない。  伝えてしまったら、二人の関係が気拙くなるだけだ。いや、至の方は子供の気の迷いと受け取り、そんな気にさえならないかもしれない。しかし、そんな反応であれば却って余計に小鞠は辛くなるに違いない。  今が小鞠にとって卒業間近で、もう学校に通う機会も少ない高三の時期であれば良かった。そうであれば、言い逃げ同然で告白できた。現実には、高校一年の秋。これから振られた相手のいる学校に二年以上通わなければならない。  だったら、どうせ、気持ちを変えられないのなら、このまま伝えないままで…。 「なんでもないっ」  ほんの一瞬で一週間かけて固めた決意を翻し、小鞠は震える手で、手紙を元あったポケットに戻そうとした。しかし、手紙は帰るべき場所の入口を逸れ、空中を落下し、パタリと舗装された歩道に落ちた。 「これ…」  灯台もと暗しの小鞠よりも先に、至が手紙を拾い上げた。 「この前、食べたやつと同じの」  顔の前に手紙を引き寄せた至は、意地の悪い笑みを浮かべた。この顔は、教師の顔ではない。「お隣のお兄さん」の顔だ。それも、大人げない時の。 「この前の、どうせ俺の悪口でも書いてあったんだろ」  彼は、そのハートを遠慮なしに解き始めた。今となっては罵詈雑言よりも知られてはならない小鞠の気持ちが、そこにはあるというのに。 「やめてっ!」  既に開かれ長方形になった紙を小鞠が取り返そうとするのを、至の高い背と長い腕が阻んだ。いつもは小鞠が好ましいと思うそれらも、今に限ってはひたすら憎たらしかった。  小鞠が本気で嫌がっているというのに、至は愉快そうに笑うだけ。なぜ、大人というものは、子供の本気を軽く扱うのだろうか。本当にどうしようもない生き物だと思うが、残念ながら今小鞠が相手にしているのは、そのどうしようもない生き物と化した至であった。  至は上に掲げた便箋を見上げた。せめて、ここが街灯の下でなければ。もしくは、街灯の真下で、紙面が逆光で見えなければ良かったのだが、残念ながら光はちょうど斜め上から差し込んで文字が書かれている面を適度に照らし、至は理系のガリ勉だったというのに視力が1.5以上もあった。 「………」  読まれている。多分、肝心なところを二度も、三度も、繰り返し。たっぷり時間を置いてから、至は腕を引き下げ、小鞠を見た。 「これって…」  ようやく自分の捕獲可能圏内に手紙が下りてきたのを、小鞠は乱暴に奪い、それから、……走って、至から逃げた。  息を切らして駅に着くと、家に持ち帰るのも嫌で、小鞠は手紙を一単語も判読できないぐらい細かくちぎって、構内のゴミ箱に捨てた。  それから、定期で改札を潜りホームに降りると、反対側のホームに至がやって来てしまわないことをひたすらに祈った。  運良く、間もなく小鞠が利用する下りの電車が先にやって来た。小鞠は車両に乗り込むと、隣のホームからは見えないだろう他の客の陰になる位置に陣取った。  その後の、家に着くまでの記憶がない。小鞠は家の玄関に上がると、在宅だった母親に帰宅の挨拶もすることなく自室に直行し、そしてベッドの上に倒れ込むと……思いっきり泣いた。
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