ハート

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 五時限目の数学。タイル床にハラリと落ちたのは、白い紙で出来たハートだった。  若い数学教師はそれを無言で拾うと、表裏をひっくり返し両面を確認し、そうしてからようやく、「なんだこれ」と呟いた。  彼の視線は直ぐに、ハートの落下地点の一番近くに座る女子生徒、三浦菜乃花(みうらなのか)に注がれた。菜乃花はいかにも不味いことになったという風に、引き攣った笑顔を浮かべた。  教師はもう一度手にしているハートを確認し、表だろう面が真っ二つになっていること、裏だろう面の上部が複雑に折り畳まれていることから、これは一枚の長方形、もしくは正方形の紙に戻るのだろうと予測した。授業中落とすと不味い…むしろ、教師に見つかっては不都合な紙といえば、ほぼほぼ察しはついた。 「授業中に、手紙のやりとりか」  教師は女子高生がやりとりする手紙の内容に、そこまでの興味はなかった。だから、ハートを解く素振りを見せたのは、生徒たちに対する戒めの為であり、そして、なにより単純にハートの折られ方がどうなっているのかが知りたかっただけだった。  その時、ギイッと学校ではお馴染みの騒音が教室内に響いた。そして、次の瞬間には教師の指先からハートが消えていた。  彼の横から伸び、ハートを掻っ攫った手。それが何者のものかと奪われた先を教師が睨めば、そこ立っていたのは、目を大きく見開いた湯島小鞠(ゆしまこまり)だった。 「…差し出し人は、湯島か」  小鞠の目がゆらゆらと泳いだ。こういう時、人一倍大きな瞳は大変わかり易い。  さっきまで教師は、手紙の内容など、どうでもいいと思っていた。しかし、静まり返った教室で轟音を立ててまで取り返しに来たその手紙の中身、この状況では気になって当然だった。 「何が書いてあるんだ?」 「………因数分解の、公式です」  嘘だ、と判断するのに、コンマ一秒すら必要なかった。クラスでトップ5に入るほど数学の成績が優秀な三浦菜乃花に、赤点青点の常習である湯島小鞠から数学に関してのアドバイスが入るなど、ありえない。教師は見え透いた嘘に、流石にイラッとした。 「渡しなさい」  教師が意識して低い声を発し差し出した手の平に、それでも、小鞠は手紙を置こうとはしなかった。 「湯島さん、出しなさい」  二度言われて観念したか、小鞠は緩慢な手つきで問題の紙片を差し出そうとした。しかし、教師の手の平に触れる僅か数ミリ手前で、それは引き戻され、そして……小鞠の唇の奥に納まった。  それから間もなく、彼女の顎、喉が僅かに動き…。 「えっ…?」  教室中が驚嘆でざわつく中、教師は間抜けな母音を一音吐いた。その時、絶妙なタイミングで終業のチャイムが高々と鳴り、この件はうやむやに終わった。
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