400m先に見えたものは

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 秋晴れの澄んだ青空が広がる10月。  この時期にしては真夏日のような強い日差しが照り付けていたが、ときより吹き抜ける風はやはり秋を思わせる心地良いものだった。  そんな心地良い風を肌で感じながら、田口伸也は実家のある市内の陸上競技場の人もまばらなスタンドの片隅で、ボーとしながらグランドを見つめていた。  別に有名選手がいるわけではなかった。    伸也の他に観戦している人たちといえば、我が子の晴れ舞台の運動会を見に来たような眼差しで見つめている人たちばかりの、地元の中学校が集まって開催されているちっぽけな大会。しいて言うなら、自分たちの学校の選手に声を揃えて応援する声や、どこかの中学の熱血顧問がトラックを走る選手に掛ける大きな声が大会らしさを思わせるほどのものだった。  でも伸也には、目の前を走っている選手にとってはたとえ市内のちっぽけな大会であっても、その想いは日本選手権やオリンピックと変わらない。いや、もしかするとそれ以上の想いで戦っている子もいるかもしれないと思っていた。  かつて伸也がそうだったように……。  「伸也」そう声を掛けてきたのは同じ中学の同級生荻野和明だった。和明は伸也の隣りに座るとコンビニで買ってきた苺ミルクのジュースとサンドイッチを取り出しトラックを走っている選手を見ていた。  「なんだまだあのユニフォーム着てるのかよ、いい加減今風のカッコイイやつに変えればいいのにな。まあ、やる気の問題だな。だから今だに都大会すらでられないんだよ」  そんなことを言いながらサンドイッチを食べている和明を伸也は少し冷ややかな目で見ていた。  「お前都大会出たんだっけ?」  「俺は都大会なんてちっぽけなこと考えてなかったよ。俺はオリンピックのことしか考えてなかったからな」  出た‼、言ってること無茶苦茶な口だけ大王。  和明は中学の時からそうだった。確かにあと少しで短距離100mで都大会には行けそうだったけど、都大会にすら行けない奴がオリンピックって…。だからといって人一倍トレーニングをするような奴じゃなく、よく部活をサボって先生に怒られてた。だからいつの間にか和明のことを口だけ大王なんて皆呼び出していた。  でも、俺は知ってるぞ。去年の東京マラソンの出場者リストにお前の名前があったことを。  あれだけ長距離なんてかったるくてやりたくねえよって言ってたお前がフルマラソンに出て、タイムはともかくちゃんと完走している。しかも、そのことを誰にも話していない。きっと中学の時も密かにトレーニングしていたんだろ。高校の時、あんな事故に巻き込まれて大怪我さえしなければ 本当にオリンピックで走るお前を見ていたかもしれないなんて思っているのはきっと俺だけだろうけどな。  和明はグランドを見ながら飲み干した紙パックのジュースとサンドイッチの包みと一緒にコンビニの袋に入れ、自分のバックに放り込んでいた。  「伸也、あとの二人は来るのかよ」  「さっき駅に着いたってLINEが入ったからもうすぐ来るだろう」  「そっか…」  しばらくの間二人はグランドで競技をしている中学生を見ながら、自分たちもあの頃はこんなガキっぽく見られていたんだろうな、なんて思っていた。  「オーイ、こっちだよ」  和明は近くにいた人たちが一斉にこっちを振り向くような大きな声で、競技場に着いた二人に向かって手を振りながら呼んでいた。  俺は他人のふりをしたいぐらいだった。  俺と和明、そして葉山幸人、大山健斗。  これで四人揃った。  「四人がちゃんと揃ったのは五年ぶりだな」  そう言いながら和明の隣りに座った健斗は、コンビニの袋からサンドイッチと和明が飲んでいたのと同じ苺ミルクのジュースを取り出し、幸人に手渡していた。  「もう五年か。あいつ、いつもここからこうやって俺たちのことを見てたんだな」  健斗が言っていた“あいつ”とは、二年生の三学期に転校してきた俺たちの同級生で、陸上部のマネージャーをやっていた山瀬水樹。    メッチャメッチャ可愛くて、中学生にしてスタイルも抜群。真面目に水樹が身近にいたせいで、それまで好きだったテレビで観ていたアイドル歌手の子なんか目にも入らなくなってしまった。  でも、それは他の三人も同じだった。  そこで俺たちは協定を組んだ。陸上部の最後の大会が終わるまでは、絶対に抜け駆けはしないと。  「あいつ、これ大好きだったな」健斗は買ってきた苺ミルクのジュースを飲みながら、やはりトラックを走る後輩たちの姿を、あの頃の自分の姿と重ねているかのように見ていた。  普通なら、五年振りに昔の仲間が全員揃ったなんていったら昔話や近況報告で盛り上がるのだろうけど、俺たちが一年に一度、この日にここに集まるのは山瀬水樹という、俺たちにとって大切なもう一人の仲間への想いだけだった。  急性白血病。 そんな病気のことが分かったのは、中学三年になってすぐのことだった。  「今年は四人揃うと思ってたよ」健斗は飲み切ったジュースのパックを見つめながらボソッとつぶやいていた。  三年生にとっては中学の最後の大会になるこの日と、水樹の命日が重なったのはあの日以来。実は俺も今年は絶対にここに来るんだと心に決めていた。  健斗とは小学校の時からよく遊んでいたけど、苺が嫌いな珍しい奴だった。そんな健斗が何故だかこの苺ミルクのジュースだけは飲んでいる。いや、正確に言えば無理して飲んでいるに違いない。  この苺ミルクのジュースは水樹が大好きで、毎日のように飲んでいた。そして大会が終わるといつも「頑張ったご褒美だよ」と言って俺たちにくれていた。  長距離を専門にやってた俺は、3000m走ってぶっ倒れそうな時に、こんな甘ったるいジュースを渡されたって飲む気にもならなかったけど、そんな空気のよめない水樹が、また可愛くってしょうがなかった。  きっと、みんなそれぞれそんなことを考えながら何を話すわけでもなく、スタンドから競技場をずっと見ていた。  そして五年前、俺たちの中学生活最後の種目になった4×100mリレーが始まろうとしていた時、それまで何も話してなかった幸人が目に涙を浮かべながら話しだした。  「覚えてるかよ、このリレーが終わるまでは絶対に抜け駆けしないって約束したの」  何を急に言い出したのかと、俺たち三人は揃って幸人の顔を覗き込んだ。  「実は俺さ、最後の大会の前に水樹から手紙もらってたんだよ」  幸人は持っていたリュックの中から、可愛らしい子熊の絵が描かれた封筒に入った水樹からの手紙を取り出した。  俺は苦笑いするしかなかった。  でも、それはあとの二人も同じことで、みんなそれぞれ自分に送られてきた水樹からの手紙をバックの中から取り出した。  それぞれが取り出した封筒を見て、健斗は小さくガッツポーズをしていた。  「ほら見ろ、ヤッパリ水樹は俺のことが好きだったんだな」  健斗が得意気に見せた封筒には、ハートの絵が描かれた。和明も幸人もガキのように真面目な顔で反論しているのを見て、伸也は呆れていた。  俺たちは水樹からもらった手紙を四人で回し読みした。  そして手紙を読み終わると、無言で競技場のトラックに目を向けた。  4×100mリレー。 四人の視線は、それぞれのスタート位置に立っている顔も名前も知らない母校の後輩たちの姿を、あの時の自分の姿と重ね合わせるように見ていた。    競技場にスタートを告げるコールが流れた。    「オン ユアー マーク  セット」  四人の気持ちは、まるでこれから自分たちが走るように昂っていた。 そしてピストルが鳴った時、その気持ちは最高潮に達していた。    第一走者 和明へ  スタート失敗するなよ。三年生の最初の大会でフライングして失格になってから自信無くしてたでしょ。でも、あの時誰か和明のことを責めた人はいた。大丈夫、少しぐらい出遅れたって、他の三人が頑張ってくれるから。それに私は知ってるよ、毎日家の近くの公園で夜遅くまでスタートの練習をしていたことを。そんな和明がスタートを失敗するはずなんかないよ。大丈夫…、大丈夫だからね和明。    和明は目の前を走っている第一走者の後輩の背中を見つめていた。    第二走者 健斗へ  相変わらずチャラチャラしてるの?このさいだから言っておくけど、七中のあの子、あんまりひつこく声かけてくるから嫌がってたよ。忠告‼️君はあの子のタイプじゃい。 どうだ傷ついただろうだろ、へへへ…。でもね、私は四人の中で健斗の走っている姿が一番カッコいいと思ってるよ。バックストレートを駆け抜けて行く姿なんて最高だよ。ちょっとは傷ついた心は癒せたかな。    健斗は苦笑いをしながら第二走者を見つめていた。     第三走者 幸人へ  足はもう大丈夫なの? まったくバカなんだから。ちょっと木村先生に怒られたからって部室の柱を蹴っ飛ばして怪我するなんて、アスリート失格だぞ。ま‼️幸人だったら足の指の骨一本折れてたぐらいでも、走るだろうけどね。その根性だけは認めるよ。幸人がベストタイム出さないと入賞できないぞ。ふて腐れないで最後まで全力で走り抜くって信じてるよ。    幸人の目からは大粒の涙が止まらなかった。      アンカー 信也へ  とうとう四人で走る最後のリレーだね。一回ぐらい信也がトップでゴールするのを見たかったけど、期待しないで報告ビデオを見るの楽しみにしてるよ。でも一度でもいいから見てみたいな。四人で繋いだバトンを持って、最後にゴールしたとき信也が見る景色はどんな景色なのか…。 一度でいいから見てみたい。    伸也たちは、誰もいなくなったスタンドから、後片付けをする人しかいないグランドを無言で見つめていた。  競技場に吹き抜ける風は、少し肌寒く感じられていた。    「伸也、水樹が見たがってた400m先の景色ってどんなだった」    明人のそんな質問に、信也は黙ったままバックの中から苺ミルクのジュースを取り出し飲みはじめた。  あまり甘い物が好きではなかった伸也だったが、久しぶりに飲んだ苺ミルクのジュースの味は、あの頃と変わらずに伸也の心の中を癒してくれた。    「400m先の景色か…」    伸也はジュースのパックを見つめたまま、それ以上何も言わない伸也だった。  「そろそろ帰るか…」和明がバックを肩に掛けて立ち上がると、健斗も和明も立ち上がり名残惜しそうにグランドを見つめていた。    400m先の俺が見た景色を、水樹にも見せてあげたかったけど…  でもゴメン水樹…  涙で何も見えなかったよ…  
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