1人が本棚に入れています
本棚に追加
比呂志は河田を人の弱味に付け込み人の誇りを傷つけ人に辱めを与える道義に反した卑劣な族の一人と見て義憤を起こした自分を当然の如く善とし、河田を当然の如く悪とするが、工場長は比呂志の様な矜持も確固たる倫理観も無いから河田の立場だったら同様に嘲笑する様な卑劣な精神をしていて卑劣な精神を罪悪として憎む事が出来ない為、比呂志の立場だったら私憤は抱いても義憤は抱かない。亦、工場長は嘲笑と笑いの見分けがつかず私憤すら抱けない明き盲とも言える位、鈍感で、縦しんば嘲笑されて私憤を抱いたとしても元々不正と戦う気は無いし損得勘定して常に事に対処するから比呂志の様に突っ掛かって行くという損な真似はしない。それに工場長はトラブルを起こした比呂志を端から不正とする為、河田の虚偽の言い分は聞いても比呂志の真実の言い分は聞こうとしない。以上の所以から工場長は比呂志が河田に立ち向かう際に掲げた大義名分に気付かないし、仮に比呂志が、「僕は河田さんがブラジル人としか仲良くしない派遣社員である自分を普段から蔑んだ目で見ていた事も工場長に叱られ注意を受けている自分を見て笑っていた事も、『高貴な者は人に恥ずかしい思いをさせない様にする。亦、すべて苦しみ悩む者を見ると自分自身が羞恥を感じる様に努めなければいけない。』というニーチェの箴言に全く反し、完全なる不正と見たので河田さんの精神に道義に反した卑劣な下賤なものを感じ俗世に蔓延る腐敗した精神の一つを見てどうしても許す事が出来なくなり、一気に奮い立って悲憤慷慨するまでに怒りが爆発したのです。そして自分の信じる徳を錦の御旗に掲げ、俗世の不正不条理と闘うべく河田さんに立ち向かって行ったのです。だから僕の怒りは私憤ではなく歴とした義憤なのであって、これに対し何で態々首にされてしまう損な真似をするんだと馬鹿にする奴は感受性が鈍くて道義心自尊心羞恥心が乏しくて即物的で品性が卑しい奴に違いなく畢竟するに理非曲直を正しく弁えていない上に常に利害得失を優先して勘定ずくで事に対処する俗物である証しであると僕は証拠立てるのです」と主張したとしても真摯に向き合わず馬鹿にするか突っ撥ねるかして理解しようとしないし、理解しようにも頭が俗に塗れすぎていて理解できないので比呂志を悪とし河田を善とする。比呂志と工場長との間にはこの決定的な善悪の齟齬が生じるのである。
最初のコメントを投稿しよう!