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世界は手紙病に感染した。
事情はこうだ。
この現代において、テクノロジーの高度化は加速度的に進行し、人々は超情報社会の仕組み、その科学的な構造を全く理解できないまま、時代が与える便利さを享受していた。例を挙げれば、どこにも機器がないというのに、カフェのデスクに手を置くだけで電子的ノートパソコンが立体的に現出したり、愛してるというだけで付近10メートルがピンク色に仄めいたりした。人々はわざわざその仕組みを知ろうとはしなかったし、全ては政府と大企業の眩しい環境改造に従うまま、それで便利になるなら尚のこと苦情の一言も湧いてきやしなかった。寧ろ一部の専門外な評論家が、テクノロジー礼賛、進化論宜しく、声高に現代を夢で装飾していった。
人類が知識に疎外され、ユビキタス麻痺状態に陥っていた或る日、「自由手紙」というものが巷を賑わせた。
普段通り家のポストを通り過ぎようとした主婦が、青白い光に気づいた。覗いてみると、そこに入っていたのは電子の、サワれる、ダイヤモンド貼りの青い洋封筒だった。そしてその中に、誰が書いたかはわからないが、ほとんど悪口めいた自分へのメッセージが、整然とした規格フォントでびっしり書き込まれていたという。
この現象は都内のみならず全国で同時的に発生した。国と郵便会社はそれぞれ会見を開いたが、彼らはその現象に関与していないということだった。
だが「自由手紙」が発見された日は7月23日。この日は、1979年に郵政省が「ふみの日」と名付けた手紙を「楽しむ」記念日なのだ。当然疑惑は郵便会社に向けられたが、結局この現象を引き起こしたのはどの組織なのか、誰がこの事業を管理しているのか、全ては深層に紛れて判明しなかった。
しかしここからが人間の面白いところで、人々はこの悪口手紙の送信を、ある程度まで把握し、更には操作することさえできるようになった。そこには特段、技術めいた操作が必要なわけではない。人々はただ、念じるだけで(!)、手紙が送れるということに気づいたのだ。
この操作はいかにも単順で、感覚的なものだった。だから人々がこの手紙に「自由手紙」と名付けたのも無理はない。バリアフリーで、魔法的なこの手紙の送信は急激に活発化した。一日に一通は必ず届くという頻度で、生活へ馴染んでいったのだ。
警察はこの透明な誹謗中傷の飛び交いに対応できやしなかった。そして人々は、何かの天啓かのように、他者を悪罵する「自由」を手に入れたのだった……。
「ふざけるな! 何だこの文章は!」
東京都江戸川区在住・船橋さん(26)は怒りのあまり叫んだ。
「全然なってない! 構成もへったくれもない!」
彼はお気に入りの朱の文机へ唾を散らしながら、座して自由手紙を読み終えたところだった。
「最近は良質な手紙が届いてこない。死ねだとかラーメンは静かにすすれ、だとか、シャツのシミが気になります仕事やめてくださいだとか、そんな単文ばかりだ。一呼吸で読めるようなやつばかりだ。全く、そんなもんで人の心を刺激できるとでも思っているのか、このご時世に……」
そうして彼は右膝にぶつけながらも机の引き出しを開け、そこから過去の手紙を取り出した。それは彼の選りすぐりの悪口手紙である。「傑作選」と筆で記した箱に、彼は気に入った自由手紙を、しかも雑言を主としてコレクションしているのだ。
「見てみろ、この手紙を。丹念にも仕上がった文章だ。特にこの一文がいい。『世間の気勢を借りて、上司のパワハラをでっち上げ、会社をオドす貴方が嫌いです』。なるほど。つまるところこれが真理なのだ。あちら側のレンズの有り様がよくわかる。このレンズで万事物事を見ているわけだ。だから私とは馬が合わない。仕方のないことだ。どちらかのレンズを矯正しないことには」
彼はそう言うと満足そうに、先程届いた「出来損ないの」中傷文を掌で丸めて消去した。
船橋さん(26)はそこら辺の駅で突っ立ってる見かけは普通の会社員だが、文筆で生計を立てたいという、夢のまた夢を抱えてくすぶっている、少し痛い会社員である。
その自意識は、自然と社会的正義に対して敏感に反応してしまう。パワハラを許さない。セクハラを許さない。あらゆる不平等を許さない。おまけにビジネススーツの存在も許さない。だから彼は、社会への反抗心による半ば強行的な態度が上司の気に障ることとなり、その分「自由手紙」の受信も人並み以上に多いのだが、彼は幸福にもその事実に気付いていないのだった。
「船橋さん、船橋さん」
ある日、いつも通り孤独な帰途につこうとした船橋さんを、若い男の声が引き留めた。
「何です?」
「いやぁ、ちょっとこの後一緒にどうです?」
ニヒニヒはにかんでいるのは、一年先輩の渋谷という男だ。話したことはほとんどない。
「一緒にって何をですか?」
「いやぁ、ちょっとお話があるんですがね」
「それならここでいいでしょう」
「いやぁ、それがちょっと都合が悪いんで」
口元を片方だけ釣り上げて、感情の読み取れない笑みを浮かべている。この男の変わらない笑みは、バーカウンターの暗い白光に照らされても変わらなかった。
「あんまり時間を取らせると悪いと思うので早速切り出しますが、船橋さん、あなた、ずいぶん迷惑手紙に心を痛めてますね」
迷惑手紙……という言葉は、自身の日常言語の内に馴染みがなかったが、凡そ質問の内容は理解できた。
「手紙ですか。そりゃ誹謗中傷がいちいち届くんだから、世間一般じゃ迷惑がられてますね」
「僕は、正直へこたれてるんですよ。中には参考になる罵倒もあるんですがね、殆どは読む価値のない罵倒ですから。僕はね、失礼ですが、朝出勤して、会社のデスクに座ってるあなたを見るとね、ちょっと勇気づけられるんですよ。あなたは人から非難を受けやすい人ですから。きっと僕よりひどい量の手紙に耐えてるんだろうな、と」
船橋さんは心の中で笑った。つまり渋谷のやつは、自分の疲弊を慰めて欲しくて、私に目をつけたのだな、と。そんな浅い推量で私という人間をハカって、勝手に私を強く逞しい神像に仕立て上げていたわけだ。
私が手紙に耐えてるだって?
逆だよ。私は待ち遠しくてたまらないんだ。
だが、こんな馬鹿に、中傷文にも芸術性があるだなんて言ったところで理解できるとは思えない。寧ろ本性を聞かせてあげた途端、ドン引きして、私に相談したことを即座に後悔するだろう。
……なるほど、そうしてやるのもいい気持ちかもしれない。本当のことを打ち明けて、こいつの心を貶めるのも……
ここまで考えて、私は満足してしまった。実行に移すわけない。私はそんな人間ではない。私は己が正義と信じる行動をとる男だ。私はそんな意地汚い人間ではない。心の信ずるままの正義こそが大事なのだ。そしてその正義は、馬鹿者には大抵縁のないものだ。だから馬鹿者はおかしな判断をする。おかしな文を書く。無知蒙昧に安住する。理性の光の下へ進み出ない馬鹿者を暗愚という。
「それでですね、僕は最近、本当にひどい手紙が届いてくるんです。本当にひどいんですよ。日付を指定して、僕のマンションの部屋の前で、絶対に殺すって書いてるんです。絶対にって。それが先月から、不定期に届いてくるんです。今のところは被害はありませんがね。もう怖くて、その日は外で寝泊りしてるんです」
「渋谷さん。本気で殺されると思ってるんです?」
「いやぁ、そりゃ、嘘かもしれませんけど、とにかく怖いことに変わりはないじゃないですか。それに僕にはそれが嘘だと断言できない理由があるんですよ」
渋谷はそう言って、オモムロに胸ポケットからハンカチを取り出し、頬をさするように拭った。青白い汗が見えた。
「その理由って?」
「手紙には毎回同じ文章が書いてあるんです。それは、言いにくいんですけどね、僕が前に飲み会の席でね、男同士で同僚の女の子の噂話をしてたんです。そりゃ気になるじゃないですか。ねぇ? あの子は誰それと関係を持ってるだとか、処女じゃないとか、逆にあの子は処女だとか、胸のサイズはEで、とかそういう話ですよ。そんなの男なら当たり前にする話ですよね? それでね、或る同僚があの子とやったことがあるって言い出したんで、そりゃ楽しい話題になるでしょう。で、僕が喘ぎ方はどんなん? とか、奥の大きさはどんな感じ? とか、会話が盛り上がるように間に入って色々聞いてみたんです。これは悪いことじゃないでしょう。同じ会社の女の子の性の事情を知ることで、色々相性とかがわかるわけじゃないですか。そしたら無駄な関係を作らずに済みますし、ダイレクトに相性の良さそうな子に告白できるわけですよ。そしたら女の子の負担も減りますしね。でもこれが悪かったみたいで、僕はその日に話題になった子に殺害予告をされてるんじゃないかと考えてるんです。そういう趣旨の文章が書かれてるんでね」
「渋谷さん」
私は思わず声を出した。
「それはイカンですよ。女性が怒ってるんだとしたら、素直に非を認めて謝罪しないと。それが道理というものです。女性差別的なものは私は許さんタチで」
「いやぁ、船橋さん。でもね、だからと言って殺害予告はダメでしょう。僕がどれだけ日々怯えて生活してるか。このくま見てくださいよ」
そう言って渋谷は、回転椅子を蹴り、隣に座る私の鼻の先へ顔を突き出した。
青白い汗のひっつく横に、黒いダムのような深淵が垂れていた。なるほど、これは深刻だ、と思わせるに十分な、見事なくまだった。
「もう一ヶ月近く不眠症ですよ。病院にも行きました。精神科ですよ。今は睡眠薬なしじゃ怖くて眠れないんです。あなたはさっき道理と仰ったが、私はここまでされる筋合いはないと思ってます。酒の席での猥談なんて、世の中にありふれてる。それで取り締まられるようになったら、自由な発言なんてあり得ない。そんなの民主主義じゃないですよ。民主主義っていうのは自由な発言が認められてこそ機能するものです」
なるほど……船橋さんは彼の言い分を聞くと、それは尤もだという気がしてきた。第一、どんな理由であれ、殺害予告は許されない。生存権は保障されねばならないからだ。
「それでね、驚かないでくださいよ。今日がその日なんです。わかりますか? ……今日、私の部屋の前に殺人鬼がいるんですよ。包丁を持って、狂気の形相で、僕に向かって静かに走ってくる。そして、そして、お腹に、銀色の閃光が……あぁ! 怖ろしい!」
渋谷は勢いよく立ち上がると、私の太ももへ密着しながら、「僕の代わりに、見てきてください。呪縛を解くためです」と震える声で言い放った。それは私の正義心を司る神経へ、直接響く声だった。
夜は9時。彼に教えられた住所へひとり進んでいた。暗い坂道の先に、渋谷のマンションは建っていた。廊下の白い電灯が、マンションの壁を升目状に区切って光っていた。
彼の部屋は3階にあった。階段を足音を立てずに上り、部屋のある廊下をそっと覗いた。そしてあまりにも呆気なく、明るい光に縁取られて、一個の人影が浮かび上がる。それは目立ちすぎだった。それは幽霊にしてははっきりしており、人間にしては怪しかったが、ドアの前でパーカーを被り、俯き続けるその人間は、仮に呪いの儀式の最中だとしても滑稽という感じには見えなかった。
「こんばんは」
とは声を掛けられなかったので、堂々と歩いていくほかなかった。私に恨みがあるというのではない。それに私はこれから彼女を咎める、裁判官の如き役目を負わなければならないのだ。だから敢然と構えるのは自然なことだ。
私の足が廊下の光に照らされた瞬間、彼女はこちらを向いた。私は彼女と違い無防備だったので、顔は既に見えている筈だった。一年先輩の女性。勿論、あちらは私の顔を知っている筈だ。
「どうして……?」
後ずさりをしながら、彼女はベージュのトートバッグを胸に抱えていた。彼女の目には、この時船橋さんが、ワープで間違った場所に飛ばされてしまったサラリーマンとしてウツっただろう。ここにいる筈がないからだ。
「なるほど、遠藤さんでしたか」
異常者の船橋さんはそう呟くと、早速断罪の姿勢へ入った。
「聞きましたよ。渋谷さんから事情を。……こんなことは止しとくんですね。あなたはもう犯罪者すれすれ、いや、警察が機能していればあなたは犯罪者だ。そのバッグに入ってるのは包丁でしょう。本当に殺しに来たというわけだ」
遠藤さんはしかし、何の反応も見せなかった。少し声を張らなければ届かない距離に彼女はいた。すっきりした面長の顎の輪郭が、彼女の正体を判らせた。
「正直に言って、通報したい気持ちも山々ですが、私は平和的に解決したいんです。これ以上馬鹿げた行動を取らないと約束してくだされば、それで終わりにしましょう。渋谷さんも同じ意見でしょうしね」
「ふざけるな!」
突然、雷鳴とともに激しい閃光が走り、船橋さんの心臓を一直線に打った。全身が一瞬、ビクッと振動した。
「あなたは中立を装ったそっち側の人間だ。終わりにしましょう? よくそんな口が聞けるよね。訴えられて負けるのはそっちでしょ? 何を聞かされたのか知らないけど、あたしは何度もあいつに体のことを聞かれたんだよ! ことあるごとに胸のあたりをじろじろ見られて、『あれ? 生理?』とか、『スタイルいいね』とか『親から貰った体大事にしなよ』とか、あたしを売春婦か何かだと思ってんのよ。すぐに体を使わせてくれる女だって。それもこれも全部あいつと下川と、面白がって聞いてた周りの男らのせい。みんながあたしのイメージを勝手に作って、安い女とからかってきた。本気で好きになった下川にも裏切られて、あたしね、今どうしてこんなことになってるのか、自分でもわからないの。どうしてこんなに辛い目に合わないといけないの。人を好きになっただけなのに。何でこんなに踏みにじられなければいけないの。あたしにだって、プライバシーがあるのに、人権も尊厳もないように扱われて……どうして……」
遠藤さんは、黒ずんだタイルの上へ、影に吸い込まれるように崩れ落ちた。彼女は泣いているのだった。私は彼女のあまりの叫びに、思わず胸を打たれた。だが、しっかり自分の役割を通さなければならないと、まだ理性が対抗しているのだった。
「でもね、遠藤さん。人を殺すのはよくないよ。私みたいにね、しっかり言葉で上司に反論して、正当な権利を主張するのはいいけども、あなたは要するに身体器官である相手の口、そのものをなくそうとしてるわけだから。それはイカンですよ」
「殺そうとしてるんじゃない! 確かに手紙は書いた。いや、それさえ自分の意志で書いたのかわからない。今のあたしは混乱してるから。でも、このバッグには包丁も何も入ってないし、今日もただあいつの怯える顔を見に来ただけ。殺そうとは思ってないし、本気で計画したこともない。それにね、あたしがこんなに苦しめられてるんだから、その原因元の相手を苦しめるのは正当な権利じゃないの? それともなに? あたしは黙って引き下がれってこと?」
「いや、そうじゃないんだよ」
「じゃあ何なのよ! あたしは気の済むまであいつを苦しめるから。警察も裁判所もろくに間に合わない今の時代、こうすることでしか気持ちがおさまらないの。あんたは上司を脅してるけど、あたしのやってることと何も変わらないでしょ。あたしはあいつらが会社でデカい顔できないように自衛してるの。社会はセクハラを許さない。だからあいつらも許されるべきじゃないのよ」
社会はセクハラを許さない。その通りだ!
私は彼女の慟哭にも似た訴えを聞くと、すっかり先程の自分の威勢を忘れてしまった。自分がさっきまで守ろうとした人物は、セクハラ男で、今目の前で泣いているのは、それに反抗する立派な正義心を持った女性なのだ。こんなに泣いてつらそうにしている彼女を守れないなら私の正義は嘘だ。船橋さんはそう思うと、彼女の行動の全てを首肯しようと決意した。正義は情動的な訴えから始まるものなのだ。社会は被害者を最小にしなければならない。であるならば私も彼女という被害者を救うべきなのだ。これは極めて理性的な判断だ。私はセクハラ被害者を守る。なぜならハラスメントは人権侵害だからだ。それ以上の説明はいるまい。
「あなたは正しい!」
船橋さんはそう言い放つと、またしても正しい判断を下した自分を、世界中の誰よりも素晴らしく思った。
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