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一
煌々と輝く満月の下、王貴はひた走っていた。とうに息は上がっている。でこぼことした荒い山道、足場は悪い。それでも、王貴はためらうことなく、大きく腕を振って必死に走る。風を切る音の合間に、自身の鼓動が聞こえる。それから、やけに規則的な足音も。奴らは諦めが悪いらしく、未だに追いかけてきている。王貴はただ急いでいるのではなく、逃げているのであった。
(満月の夜は気を付けろ。魂をなくした体が、うろうろと歩き回るから。もしも奴らに見つかったら、それは大変。すぐさま逃げろ……)
幼い頃に親しんだわらべ歌が、王貴の頭の中をぐるぐると巡っている。それは、祖母から教えてもらったわらべ歌であった。小さい頃は歌の内容を本気にして、満月に怯えていた記憶がある。だが、今年で一六になる王貴は、とっくの昔にそれが単なるわらべ歌で、事実ではないことに気が付いていた、はずだった。
(走って走って、物陰に隠れて。縮こまって息を止めて。そうすれば、見つからない。それができなければどうなるか。そんなの決っているさ! 食べられちゃっておしまいさ……)
王貴はちらりと空を見た。熟れた果実のような黄色い月が、真っ暗闇の中に浮いていた。どうしてかいつもより明るいように感じる。夜の山道を行く王貴にとって、こうも明々とした満月は本来ありがたいものである。だが、今はただただ恨めしいだけであった。何故なら、奴らに追いかけられる羽目になったのは、恐らくこの満月のせいであるためだ。月の光を受けて、奴らは起きだしてしまったのだ。あの、祖母が教えてくれたわらべ歌の通り。
やはり、日が暮れてから隣村に出かけたのはまずかったか。隣といえども、峠を一つ越えた先なのだ。王貴は小さく舌打ちをした。
「くそっ」
もう、家の近くまでは来ている。この山道を降りきれば、王貴の住む村が見えてくる。当然、そこまで行けば人がいる。しかし、このまま奴らを引き連れたまま村に戻るのは、果たして良いのか。考えるまでもなく、良いわけがない。何としてでもまかなければ。
息苦しさは留まることを知らない。それでも、王貴はぐっと走る速度を上げた。
ひたすら走る。大きく腕を振り、口を開けて必死に呼吸を繰り返す。下草を蹴散らす音が、やたら大きく響く。音は、複数。王貴自身のものと、それ以外のものと。それぞれが重なり合って、不穏な響きになっていた。奴らとの距離は、全く離れていないようだ。
仕方がないので、王貴は左手の鬱蒼とした木立に飛び込んだ。茂みをかき分けながら、できるだけ早足で進む。もう少し距離を引き離したら、木の上なり岩陰なりに身を潜めてやり過ごすしかない。わらべ歌では息を止めれば見つからないらしい。本当かどうか疑わしいが、今はそれにすがるしかない。
茂みをかき分けて進んでゆくこと間もなく、だんだん木が少なくなって視界が開けてくる。思っていたような手ごろな物陰は見当たらない。王貴は内心で毒づきつつ、再び走り出した、その時。眼前で影が横切った。
「うわぁ!」
叫びながら、王貴はとっさに足を止めて後ずさる。一歩二歩と下がったところで足がもつれた。こらえきれず、盛大に尻餅をついてしまう。
「ごめんなさい!」
響いたのは、甲高い声。まるで幼い女の子のような、夜の山には不釣り合いな声音である。
王貴は急いで顔を上げた。月明かりの下、少女が一人立っているのが見えた。
王貴よりも年下であろう。まだ子供と言っても良いくらいの少女だ。頭にちょこんと乗っかったあげまきが良く似合っている。しかし、どうもそこらにいる村娘とは様子が違う。体にまとうのは、萌黄色の足元まである長衣。以前見かけた、呪い師を自称していた老人が着ていた衣と同じ形をしている。それから何よりも目立つのが、小さな体からだいぶはみ出た大きな桶だ。自身の体の半分以上はある大きな桶を、少女は真顔で背負っていた。
王貴は目を瞬かせた。この珍奇な少女は一体何者だろうか。格好も相当変だが、こんな夜にこんな辺鄙な場所で何をしているというのだろう。
「おどろかせてしまってすみませんでした。大丈夫ですか?」
少女が口を開く。その口ぶりは見た目よりも随分としっかりしていた。
だが、感心している場合ではない。忘れていた焦りが再び湧き立ち、王貴は少女につかみかからん勢いで立ち上がった。
「ば、化け物が……」
言いかけてはっとする。空気に混じったすえた臭い。ついに追いつかれた。奴らはすぐそこにいる。王貴は固まった。頭からつま先まで、凍り付いてしまったかのようだ。動けないくせに小刻みに体が揺れているのは、震えているためだ。
少女がつい、と首を伸ばして王貴の背後を見つめた。
「……大丈夫ではなさそうですね。下がっていてください」
謎の少女は桶を降ろすと、桶の蓋に挟まっていた剣を手に取った。その剣を少女は軽々と手の中で回転させる。目だけを動かして少女の剣をよく見てみれば、簡素な安っぽいつくりであることに王貴は気が付いた。あれは金属の剣ではない。恐らく、木でできたものだ。
あんな、子供の玩具のようなもので、何をするのだろうか。まさか、奴らと戦うつもりなのか。
「その桶から離れないでください」
少女の言葉に、王貴ははっとした。慌てて側に置かれた桶を一瞥し、すぐに少女へ振り返る。
「え? 桶? いや、何?」
この状況でどうして桶の近くにいるのがいいのか。そもそもこの桶はなんなのか。訳が分からずに王貴はきょろきょろとあたりを見回す。しかし、少女は王貴には応じずに、悪臭漂う闇へと進み出でると、そっと剣を構えた。
彼女は本当に、奴らとやり合うらしい。あの小さな体躯で、張りぼてのような木の剣で。無茶である。
「待てっ……」
王貴がとっさに口を開いたその途端、暗闇に沈む木々の合間から、人影が跳びだしてきた。何かが腐ったような甘酸っぱい強烈な臭いが辺り一帯に広がる。
人影は、人ではなかった。人のようだが、人ではなかった。
黒ずんだ肌に、伸び放題のぼさぼさの髪。牙のような鋭い歯がはみ出した口は、よく見れば端のほうが赤く汚れている。ぼろぼろに朽ちた衣は、着ているというよりひっかけていると表現した方が正しい。肉の削げ落ちた細い腕の先端、手の爪が異常なまでに伸びている。それも鋭く。
僵尸。かつて人であったもの。動き回り、人を襲う屍。
わらべ歌や伝承に出てくる怪物として、王貴にはおなじみのものであった。だが、小さい頃はともかく、大きくなってからは実在するだなんて思ってもみなかった。しかし、今日王貴は出会ってしまった。隣村からの帰り道、早く家まで戻りたくて抜け道に逸れたら、彼らがいたのである。僵尸が、動物の死骸のようなものに群がっているところに、出くわしてしまったのだ。
未だに、この現実を信じたくなかったが、けれどもこれは夢でもなんでもない。夢かもしれないけれど、どちらにせよ命の危機には変わりない。
王貴は唾を呑み込むと、桶に寄り添った。正味、何をどうしたらよいのか分からない上、非常に心もとない。できることと言えば、少女に言われた通りにするだけだ。今頼れるのは、目の前で僵尸と対峙する、あの小さな少女だけなのだ。
少女は、僵尸を前にしても引き下がる様子を微塵も見せなかった。僵尸は、棒のように突っ立ったまま、少女を見下ろしている。
少女も僵尸も動かない。緊張感が高まる。緊張と共に、王貴の胸の内がざわつき始める。月光に照らされた薄明るい夜が、一層不気味な空間に思えてくる。どうしてか、体が冷たい。王貴は桶に抱き着くように、ぴったりとくっついた。
果して、何が起こるのか。少女と僵尸はどうなるのか。そして、自分自身はどうなるのか。さまざまな不安が、王貴の心の中を駆け巡る。少し吐き気がしてきた。
微風がそよ吹き、ほのかに空気を揺らす。
先に動いたのは僵尸の方だった。唐突に、少女めがけて跳びかかる。
王貴は、とっさに目をつぶった。
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