act.03

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act.03

 定光は、かねこ特製・滝川用弁当をデスクの側に置くと、まずは腕組みをしながらジッと画面を眺め、編集作業の出来具合を確認した。その後、滝川の手元を注意深く観察する。  滝川が保存のショートカットキーを押し、ハードディスクがカタカタと動き終わる頃を見計らって、定光はパソコン本体の電源を強制的に落した。  突然画面が真っ暗になったことが理解できなくて、滝川はマウスを持ったまま固まる。  元気があるうちは、すぐに電源を切られたことに気づき激怒して暴れ始める筈だが、一昼夜飲まず食わずで作業をしていた滝川に、その余力はない。そこらへんのことを熟知しての定光のこの対処だった。  パソコンには負担がかかるが、こうでもしないと滝川を止められない。  ぽかんと開いた滝川の口から、たらりと涎が垂れる。  彼の周りに群がってくる女性達には絶対に見せられない姿だ。 「 ── 涎、垂れてるぞ」  定光が声をかけると、ようやく滝川が定光の方に顔を向けた。  目はうつろで、ぽかんとした顔つきのまま。  定光は、腰のポケットからハンカチを取り出して、差し出す。  滝川は借りてきた猫のように大人しくそれを受け取ったが、それ以降動かないので、その手を定光が掴んで、涎を吹き取らせた。  滝川はクンとハンカチの臭いを嗅いで顔を顰める。  同時に定光も顔を顰めた。 「においを嗅ぐバカがいるか。臭いに決まってるだろ? 昨夜から何も食べずに徹夜しやがって」  定光は部屋の片隅にあった椅子を引き寄せ座ると、かねこの女将が持たせてくれたビニール袋から、お手拭きを取り出して、まずは滝川の両手を拭いた。そしてその手に塩にぎりを持たせる。塩にぎりは、まだほんのり温かかった。 「まずは食え。何も考えずに口に入れろ」  定光がそう声をかけても、まだ滝川の頭の中はブレーキがかかっていないのか、宙を見つめたままブツブツ何かを呟いている。 「新。新!」  定光が二度声をかけると、やっと定光の顔にピントを合わせた。  滝川が定光を見て、顔を顰める。 「お前、いつ髪の毛切った?」 「髪?」  定光がすっかり短くなった前髪を摘むと、滝川同様に顔を顰めた。 「そんなこと、どうでもいいだろう? いいから、食えよ、それを」  滝川は手の上に乗った塩にぎりに今初めて気がついた、といった表情を浮かべた。 「食わないと、話はしないからな」  そう言われ、滝川はモソモソと握り飯を食べ始める。 「 ── うまい」 「当たり前だ」  滝川は食に無頓着ではあるが、舌は音痴ではない。ただ、今までの食生活がいかんせん酷すぎた。  滝川は『家庭の事情』とやらで16歳の頃に単身渡米して以来、ずっと1人で暮らしてきたらしい。  アメリカ時代は、ハンバーガーやホットドッグなどで腹を満たしていたようだ。  それを知った時は、よくぞそんな食生活で太らずにやってこれたと感心したものだが、やがて滝川が異常なほど脳味噌を使っていることがわかると、摂取したカロリーの殆どを脳味噌に費やしているんだなと感じた。  人間は通常脳の半分しか使ってないとよく言われるが、おそらく滝川はそれ以上に脳を酷使している。 「ほら、大根も食え。味噌汁もあるぞ」  滝川の空いている手にカップを持たせる。  滝川は素直に食べ続けた。だが、タッパーの中で湯気を立てている大根を見ると、定光と交互に見つめて、やがて「あーん」と口を開けた。  定光はそれを見て、「は?」と声を上げる。 「なにそれ」 「なにって、両手が塞がってるの、見えねぇのか」  確かに、右手に握り飯、左手にカップを持っている滝川は両手が塞がっている。 「お前、ふざけるなよ……」  定光はそう愚痴りながらも、大根に刺さった楊枝を摘むと、滝川の口の中に大根を放り込んだ。滝川は機嫌良さそうにモグモグと口を動かす。  結局、命令されるまま大根を全て食べさせて、滝川の顔色を窺った。  先ほどよりは、随分顔色が良くなってきた。  定光はすっかり空になった容器を片付けながら、「眠くなってきたか?」と訊く。  しかし滝川は右手の指を2本突き出し、タバコを要求してきた。  定光はため息をつきながら、デスクの上にあったマルボロの赤ラベルとZippoライターを手に取り、タバコを取り出して、瀧川の指の又に置いた。 「 ── 火、ついてない」 「自分でつけろよ、それくらい」 「面倒臭い。身体がだるい。肩が痛い……」  こうなったら延々と屁理屈を聞かされるのがオチなので、定光は今滝川の指に置いたそれを取り上げ、自分の口に咥えた。 「お前、俺がタバコやめたの知ってて、こういうことさせる?」  タバコを口に挟んだまま定光がそう言うと、滝川はニヤリと笑った。  定光はライターで火をつけて、二、三回タバコを吹かす。こうしないとタバコには完全に火がつかない。  滝川は定光がそうする様子をジッと見つめた後、定光の口からすいっとタバコを取り上げて、満足そうにタバコの煙を燻らせた。  定光は久々の苦々しい煙の味にゴホンと咳払いをする。  幸い、タバコをやめて二年以上経つので、不味く感じた。 「なんで髪の毛切った」  タバコを吹かしつつ、横目で滝川が定光を見てくる。  明らかにその目つきや口調には不快感が滲んでいた。 「肩下まで伸びてたんだ。そりゃ切るさ」  滝川にとっては納得できる答えじゃなかったらしい。再度「なんで」と訊いてくる。 「だから、明後日初めて会う人に挨拶しに行くからだよ。伸ばしっぱなしのボサボサの髪じゃだらしないだろう?」  滝川は横目で定光を見つめたまま、「別にミツの髪なら、伸ばしたって不潔には見えやしねぇだろうが」と言う。 「そういう問題じゃないんだよ。礼儀はきちんとしなけりゃ」  定光がそう返すと、滝川はハッと鼻で笑って、「つくづくお前は、日本人クセェ野郎だ」と呟いた。定光にそんなことを言うのは、日本広しと言えども滝川だけだ。 「とにかく、その髪は切り過ぎ。どの店で切った?」 「店なんかに行く暇なんてあるわけないだろ?」 「じゃ、瀬奈が切ったんだな」  滝川は話の先読みをする能力にも長けている。とにかく頭の回転が異様に早い。 「そうだけど・・・・。あ、おい、有吉のこと責めるなよ。俺が切れって頼んだんだから。有吉責めたら、俺が許さないからな」  定光は何度もそう滝川に言い聞かせた。滝川には、似たようなことで幾人もの社員を泣かせて追い出した過去がある。  滝川はわかったといった風に、タバコを持った手をひらひらと振った。  その目がやっとショボショボし始める。  定光は安堵のため息をついた。 「やっと眠くなってきたな。仮眠室に行こう」  定光が滝川の手からタバコを取り、灰皿に押し付けるのと同時に滝川が立ち上がる。  ずっと座っていたせいか、はたまた眠気のせいなのか、滝川の足元がぐらぐらと揺れた。 「ああ、もう危ないから歩くな」  定光は滝川の身体の前に回り込むと、背中を向けしゃがむ。  滝川は大人しく背中に乗ってきた。定光は滝川の脚を抱えて、よいしょと立ち上がる。  何とかして編集室のドアを開け、廊下を歩き始めると、すぐに背中からスースーという規則正しい寝息が聞こえてきた。  エレベーターホールから、笹岡が定光の姿を見つけて、駆け寄ってくる。 「ああ、ミツさん! 新さん、おぶっちゃってるんすか?! 大丈夫ですか?」  笹岡は、アワアワと定光の周囲を走り回る。  定光はにっこり笑うと、「鍛えてるから平気だよ。それより、エレベーターのボタン押してくれ」と言う。 「あ、はい! 了解です!」  笹岡が今来た道を取って返して行く。  チンと音がしてエレベーターのドアが開くと、中に乗っていた先輩ディレクターの速水と出くわした。エレベーターの箱を降りた速水が、「お」と背を反らせる。 「なんだ。また新、やっちゃったのか」  定光は速水と入れ替わりに箱に乗ると、ハイと苦笑いする。 「ミツも大変だね。毎度毎度」 「もう慣れました」  スルスルとドアが閉まりかけたところで、定光が「あ!」と声を上げたので、笹岡が慌ててドアに手を差し込んで、強制的にドアを開けさせる。 「すみません、速水さん!」  エレベーターホールを去りかけた速水に定光が声をかけると、速水が慌てた様子で振り返った。 「なんだ、なんだ?」 「あの、申し訳ないんですけど、新の編集、多分もう完成してるんで、編集スタッフの誰かに言って、データ出ししておいてもらえます?」 「ああ、オッケ、オッケ。言っとく」  定光は速水のオッケーサインを見届けて、笹岡に目配せをした。  再びエレベーターのドアが閉まる。  仮眠室は、会議室や休憩フロアのある四階に位置している。  しばしの沈黙の後、笹岡が恐る恐るといった感じで、定光に訊いてきた。 「あのー、新さんの編集データ、勝手に出すと怒られません?」  笹岡は一番の新入りだから、滝川と定光の関係性をまだ完全には把握していないのだ。  定光はずり下がりかけた滝川をヨッと担ぎ直すと、ちらりと笹岡を見る。 「データの出来具合は俺が見た。あれ以上こねくり回しても、結局元のところに帰るだけだ」  定光の声は自信に満ちていた。  定光が他のプロダクションマネージャーと決定的に違うのは、元々制作側の仕事をしていた点である。  グラフィックデザイナーとして仕事をしていたからこそ、クリエイターの視点を持ち込むことができた。  特に滝川の仕事は一際ヴィジュアルに訴えてくる作品が多く、その出来具合まで判断できるのは、定光がデザイナーだったからこそだ。  他のプロダクションマネージャー二名は、スケジュール管理や様々な手配の要領の良さは確かに定光を上回るが、作品の良し悪しまで判断できて口が出せるのは、定光だけだ。  笹岡は、不思議そうに定光を見る。 「ミツさん、なんでグラフィックデザイナーやめて今の仕事についたんですか?」  実のところ、それは定光にとって心に小さな棘が刺さるような思いにさせられる質問だった。  定光は少しだけ苦笑いすると、「なんでなんだろうな?」と答えになってない答えを呟いた。  その翌日、朝のエレベーターの中で、定光は偶然有吉瀬奈と一緒になった。 「ミツさん、おはようございます」 「おはよう」 「昨日ミツさんがデータ出しの指示出した新さんの仕事、早くも先方で絶賛されたみたいですね」  おめでとうございます、と瀬奈が言う。 「ありがとう。耳が早いね」 「昨日、最後の仕事で笠山さんと一緒になったんです。笠山さん、顔がホクホクしてましたよ」  定光は、そうと返した。  滝川の仕事が一発OKなことは、定光にも自信があったから、何も驚かなかった。  それよりも、瀬奈が続けた次の言葉に、ギョッとした。 「あ、それと、昨日の午後に新さんがスタジオまでやってきて、私が切ったミツさんの髪の毛の在り処を訊いてきましたよ」 「はぁ?」  定光はマジマジと瀬奈の顔を見返した。その時、チンと音が鳴って二階につく。「じゃ、失礼しまーす」と明るくそう言いながらエレベーターを降りていく瀬奈を追って、定光もまたエレベーターを降りた。 「ちょちょちょ、待って待って。それってどういうこと?」  瀬奈が「どうって・・・」と両肩を竦める。 「拾ってましたけど。ゴミ箱から」 「えぇ?」  定光は、思わず自分の身体を抱いて、身を震わせる。 「なに、それ。俺の髪の毛拾って、アイツ何するつもりなんだ? 呪いの藁人形とか?」  それを見て瀬奈が笑い声を上げる。 「まさか新さんがミツさんを呪うことなんて、絶対ありえないですよ。突拍子もないことする人だけど」 「じゃ、なんだって……」 「ただ単に欲しかっただけじゃないですか? ミツさんコレクション」 「コレクションって……」 「いよいよ新さんのミツさんフェチにも磨きがかかってきましたよね」  瀬奈はそこまで言うと、「仕事に遅れるんで、本当に失礼しまーす」と言って、廊下の向こうに消えて行った。
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