act.38

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act.38

 その後、ラクロワと入れ違いにクローゼットルームに姿を見せたのは、意外にも日本人の女性だった。  ラクロワとすれ違いざま二言三言交わした後、大きく頷いたその女性は、日本人とはいえ、日本ではなかなか見られないような洗練されたオリーブカラーのタイトスカートとショート丈のジャケットを着こなし、どこか日本人離れしているように見えた。  ラクロワが笑顔を浮かべながら彼女の腕を柔らかく叩いた様を見ると、随分ラクロワから信頼されているようだ。  ラクロワが出て行った後、その女性が真っ直ぐ定光と滝川の方に近づいてくる。  その雰囲気が日本人離れしているので、日系アメリカ人なのかな?と思っていたが、彼女は開口一番「初めまして。伊藤理沙です」と言いながら、手を差し出してきた。  定光は内心ホッとしながら、「定光です」と挨拶をする。 「日本の方なんですね」  定光が思わずそう言うと、理沙は「ええ」と言って微笑んだ。  よく見ると、美しく丸いシルエットのショートボブの髪にも白いものが混じっていて、如何にもベテラン社員の印象を与える。 「とは言っても、こちらで住んでいる年数の方がもう長いんですよ」  彼女は、英語が堪能な日本人特有の発音で話した。滝川も似たような感じで日本語を話す。 「エニグマでコーディネーターの仕事をしていましたが、今は主にショーンのマネジメントチームのチーフをしています」  定光は"コーディネーター"と聞いて、顔を綻ばせた。  雑誌社でコーディネーターというと、映像制作会社でいうプロダクションマネージャー……つまり定光と同じような仕事をしていた人物だということだ。  理沙を急に身近に感じるのと同時に、エニグマ側に日本語が話せる人がいて、定光の緊張は幾分和らいだ。 「もう衣装は選ばれました?」 「ええ」  エニグマスタッフがボディトルソーから脱がしている途中の衣装を定光が手で指し示すと、理沙はまた大きく頷いた。 「エレナと同じチョイスね」  理沙がそう言うと、先ほど難色を示していたスタッフらが顔を見合わせているのがわかった。 「エレナから、あなた方がC市に向かう為の手筈を整えてと言われています。あちらの打ち合わせ室で詰めましょうか」  理沙はそう言うと、定光と滝川を促して、ノート側のスタッフも交えてクローゼットルームを出たのだった。  定光は、ホテルの部屋に入るなり、「ああ」と大きく息を吐き出して、どかりとソファーに座った。 「やっぱり、何かと疲れた……」  いけないとはわかっていながらも、思わずそう口をついて出る。  一方滝川は、いたって通常運転で、使い込まれたボストンバッグを床に放り投げ、リビングルームのカーペットの上に胡座をかくと、早速タバコを咥えた。  だがそれは、いつものマルボロ赤ラベルではなく、細身の品のいい紙巻きタバコだった。シガレットといったらこれ、といったような風情である。 「どうしたんだよ、それ」 「ん?」 「タバコ」  定光がそう訊くと、滝川は口からタバコを取ってそれを見つめ、「ああ。エレナがくれた」と言った。よく見ると、反対側の手には、真新しい黒革カバーのついたスチール製の薄型シガーケースが握られている。  定光は眉間に皺を寄せる。 「まさか、そのケースごと貰ったっていうんじゃないだろうな……」 「なんで"まさか"、なんだよ」 「いかにも高価そうな物を貰って、普通でいる方がおかしいだろうが」 「だって、くれるっていうんだもん。それを貰って何が悪い」  滝川は悪びれもせず、シガレットを咥えて火をつけ、美味そうに煙を燻らせた。 「あんなに時間がなかったのに、いつのタイミングで貰ったんだよ」 「オメーが衣装選んでる間」  確かに思い返せば、定光が用意された衣装を見ている間に、背後で盛んに小声で話しているとは思っていた。  しかし、滝川がなぜそこまでラクロワから気に入られているのかが定光にはまったくわからなかったが、可愛がられているのは間違いない。  やはり、女性が滝川を見ると群がっていくのと同じように、ラクロワもまた"女"ということだろうか。  だがさすがにラクロワは、仕事上現役バリバリと言えども、実年齢はそこそこ高齢だ。滝川をベッドに引きづり込もうとまでは思っていまい。それに滝川のラクロワに対する態度も、これまでの取り巻き女性達とは違うようだ。滝川もラクロワに懐いている節がある。それはこれまでとまったく違う。  定光は、滝川がシガレットを吸う様をぼんやりと眺めた。  いつものタバコの香りと違って、ナッツのような芳しい香りがする。  既に夕食は済ませていた。  今後の仕事の進め方について、エニグマ、ノート、パトリック社の三社で打ち合わせをした後、理沙の行きつけ古いリストランテで彼女の夫と四人で食事を摂った。  幸い、滝川の口にもあったようで、なかなか具合のいい夕食となった。  定光も、アメリカの料理はマズイと思い込んでいたので、嬉しい誤算だった。  アメリカでも、場所を選び、きちんとお金を払えば、味のいい食事にもありつけるということがわかった。  満腹感と今日一日の目まぐるしさからくる疲労感で、定光の目はショボショボとしてくる。 「おい、寝るんならベッドで寝ろ」 「うん……。その前に風呂に入らなきゃ……」 「風呂なんて、明日の朝入りゃいい」 「歯も磨かなきゃ……」 「一晩磨かなくても死にゃしねぇよ」  滝川は呆れたようにそう言うと、シガレットを口の端っこに咥えて立ち上がり、定光を横抱きに抱き上げた。 「ちょっ……」  定光は、重たい瞼をパチパチと瞬かせる。  まるで女の子のように"お姫様だっこ"されて、さすがに恥ずかしかったが、暴れる前に「寝室のドアを開けろ」と言われ、美しく細かい格子状の引き戸を開けた。  そこにあるのがキングサイズのダブルベッドだということに、定光は目を丸くする。  若干、眠気が飛んだ。 「な、なんでベッドが一つっきゃねぇんだ?」  ベッドにドサリと落とされつつ、思わず定光は呟く。 「あ?」  滝川が面倒くさそうな声を上げる。  しかし定光は、湧き上がった疑問をそのままにしておくつもりはなかった。 「なぜツインルームじゃない?」  このホテルもエニグマ側が用意してくれていた。  ショーンの定宿という老舗ホテルは、派手さはないが居心地のいい小さなホテルだ。  フロントでの対応もごく普通で……普通というより随分丁寧だった……、ゲイカップルを見るような下世話な視線など、一切感じなかったのだが。  滝川はベッドの片隅に腰掛けてシガレットを吹かしながら、「欧米じゃ、ツインルームは少ねぇんだよ。このホテルにもない」と答えた。 「ええ?」  顔を顰める定光に、滝川はしれっと言った。 「エレナに、ホテルの部屋は二部屋取るか?とこっちに来る前にメールで訊かれたから、いや、一部屋でいいよ、って答えといた」  定光は口をパクパクとさせる。 「やっぱ、お前が原因か〜〜〜!」  定光が身体を起こしてそう唸ると、滝川はいかにも心外といった風に肩を竦ませた。 「エレナは俺らの関係知ってるんだからいいじゃん」 「エレナは知ってても、他のスタッフまでは知らないだろ?!……え、ちょっと待て。今なんつった?」 「あ?」  滝川のアホ面に、定光は思わず足でヤツのお尻を蹴る。 「今、エレナは知ってるって言った?」 「ああ」 「な、なんで知ってるんだよ!!!」 「メールでやりとりしてたら、隠してるといろいろ面倒臭くなってきちまったから……」 「お前はどうして、どんどん周りに言っちゃうんだよ、そうポンポンと!」  定光がそう言うと、滝川は目に見えて不機嫌になり、口を尖らせた。 「俺からしてみれば、お前こそどうしてそんなに隠したがるんだよ。嫌なのか、俺と付き合ってるのが」 「い、嫌じゃない。そういうことを言ってるんじゃない」 「じゃなんだよ。俺と付き合ってるのが、そんなに疚しいことか? 恥ずかしいって思ってるのか?」 「違う。そうじゃない」 「説得力ねぇな」  滝川は腕を組み、流し目で定光を見つめてくる。  指に挟まれたシガレットから、およそこの場の雰囲気とは違う、ゆったりとした煙が立ち昇っていった。  定光は姿勢を正すと、身体を真っ直ぐ滝川に向けて言った。 「俺は、お前との関係を恥ずかしいとは思ってない。思っていたら、そもそも付き合えてないし。でも、男女のカップルでも職場では公にしなかったりするだろ? 恋愛感情を綯交ぜにして仕事してると思われたくないんだよ、俺は」  定光がそう言うと、滝川はゆらゆらと身体を動かした。 「ふーん、そんなもんかね」  滝川は気のない返事をして立ち上がると、そのまま寝室を出て行った。  思春期をアメリカで過ごし、社会常識をアメリカでしか学ぶことができなかった滝川からすると、日本の閉鎖的な恋愛観が理解できないのかもしれない。  定光は、滝川のいなくなった空虚な寝室で、膝を抱えて座った。  滝川はリビングでいまだシガレットを吸っているのか、物音もしない。  定光は、なんだか急に取り残されたような気分になった。  そして驚くべきことは、いい年をした男なのに、その"取り残された感"がたまらなく辛いと感じていることだ。  自分の弱さや甘さを痛感させられた気がして、定光は自己嫌悪に陥った。  表向き、滝川には「ベタベタするな」と言っておきながら、いざ素っ気なくされると、一丁前に淋しさや不安を感じるだなんて、酷く我儘で都合がいい。  振り回しているのは、実は滝川ではなく自分の方じゃないかとも思った。  だがここで、滝川に「独りにしないでほしい」だなんて、とてもじゃないが言えたものではない。先に滝川を拒絶したのは、他ならぬ自分だ。  定光は、ベッドの上にごろりと身体を横たえ、自分の身体を抱き締めた。  ぶざぶざとネガティヴなことを考えているうちに、先ほどの眠気が再燃し、自然と瞼が閉じていった。  だが、定光がまどろんで行く間も、終ぞ滝川は寝室に姿を見せなかった。
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