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act.40
「例の曲は、もう少しで完成といったところ」
ショーンが澄ました顔でそう言うと、理沙は呆れた顔つきでそれを眺めた。
「もう。エレナはあなたが来るのを楽しみにしていたのよ。それをあの木偶の坊のために反故にするなんて、どうかしてる」
「木偶の坊って、酷いなぁ! コウは、今や顧客数が急激に伸びてるロジャー・ウィング カンパニーの共同経営者だよ!」
「中小零細企業の面倒ばっかり見てる、貧乏暇なしの経営コンサルでしょ」
「そ、そりゃぁ今は、前の会社のようなサラリーは見込めてないけどさ……。でもその崇高な精神がっ!」
「はいはい。あなたの彼氏自慢はもう聞き飽きたわ。仕事はきっちりとしてよ」
理沙とショーンの会話は、定光にも意味が理解できたので、思わず定光は隣に立っている滝川を見た。
滝川はすでにここら辺の事情をショーンから聞かされていたのか、それともただ単に興味がないのか、行儀悪く大きな欠伸をしていた。定光は、肘鉄を食らわせる。
そのタイミングで、ショーンが定光と滝川の方を見てきた。
「ゴメンね。わざわざスタジオまで来る羽目になっちゃって」
「あ、いいんです。ショーンのスタジオ見られて、却ってラッキーだったっていうか」
定光の拙い英語でも、ショーンはきちんと意味を理解してくれたらしい。
ショーンは人懐っこい笑顔を浮かべると、「そう言ってもらえると、少しは罪悪感なくなるよ。さ、座って」と3人に促した。
ショーンはソファーに広げていたメモ用紙や五線紙をバサバサとテーブルの上に寄せ、定光達3人の座る場所を辛うじて確保する。
録音ブースの前の前室になっているこの部屋にも赤く分厚い絨毯が敷き詰められており、ややスプリングに難がありそうなソファーセットが部屋の半分の面積を占めていた。
アンティークといえば聞こえがいい本革製のソファーは、人が座った跡で擦り切れているような代物で、なかなか年季が入っていそうだ。
「ごめんなさいね、オンボロソファーで。いつも買い換えろって言ってるんだけど」
理沙が大袈裟に肩を竦める。
理沙は日本語でそう言ったが、ショーンには意味がわかったらしい。
「今、俺のことケチって言っただろ? 彼女」
ショーンが、理沙を親指で指してそう言う。
定光は言い淀んだが、滝川はハッキリと「ああ」と答えた。
ショーンが顔を顰めて、理沙を殴るようなジェスチャーをする。理沙はそれを避けるふりをしながら、ほほほほほと妙な笑い声を上げた。
「ショーン、俺さぁ、腹減った」
そんな最中、滝川がそんなことを言い出したものだから、定光は顔を真っ赤にした。
「ちょっ、お前、何言ってんだよ!」
定光は日本語で怒鳴ったが、ショーンは定光の怒鳴り声などどこ吹く風で、「あ、なんだそうなの? そういうことは早く言いなよ」と返して、手近に転がっていたiPhoneを手に取った。
ショーンは、慣れた調子で電話に向かってデリバリーの注文をした。まるでマシンガンのような早口で。
「下のパブ、ああ見えて結構いい料理をデリバリーできるんだ。もっとも、デリバリーしてくれるのは、うちにだけなんだけど」
「へぇ、何それ。スター待遇?」
滝川はエレナ・ラクロワに貰ったシガレットを口に咥えながら、不遜な口ぶりで訊く。
ショーンも滝川のその態度を咎めもせず、「まぁそうかな。パパラッチに来られたりとかすると、一切外に出られなくなるからさ。下のテナント募集する時に、条件につけたわけ」と答える。
その様子を見る限り、ショーンがパトリック社に来た時に「俺達と友達になればいいじゃん」と滝川がショーンに言っていたように、本気で二人は友達になっているようだ。
「アラタの口に合うかどうかわからないけど、結構美味いと思うよ。一般的なダイナーの食事より」
「え〜、俺っちの舌って、結構ワガママにできてるからなぁ」
滝川が大袈裟な口を叩いて背伸びをすると、理沙は呆気に取られた顔つきで、そして定光は青い顔をして、滝川を見た。ショーンはケタケタと笑いながら、その様子を眺めている。
理沙は、滝川がここまでショーンと親しいとは思っていなかったらしい。「前からの知り合い?」とショーンと滝川を見比べて言った。
ショーンが滝川との縁を理沙に説明している間、定光は滝川の太ももをぴしゃりと叩いた。
「お前、失礼な態度もほどほどにしろよ」
「イッテェ! なんだよー。ドメスティックー」
滝川が口を尖らせる。
「人聞きの悪いことを言うな。ここには仕事で来てるんだぞ」
「まだ仕事のしの字も出てない段階じゃんか。打ち解けるためのコミュニケーションだってこと、わかれよ」
「親しき中にも礼儀あり、だろ!」
「おまー、ほんっとに爪の先まで日本人だね」
気づけば、ショーンと理沙がジィッと無言で二人のやり取りを見つめている。
「え、あ。す、すみません」
定光はカァッと顔を赤くしたが、滝川は呑気に耳をほじっている。
「本当に正反対の二人なのね」
理沙がボソリと呟いた。
ショーンが言った通り、下の店からのデリバリー料理はシンプルながらもハーブをきちんと利かせたセンスのいい料理だった。
ケチャップやバーベキューソースに塗れた料理とは違う様子に、滝川も機嫌よく料理を口に運んでいた。
ランチを摂りながら、午後に向けての打ち合わせを行った。
理沙とは別働隊のエニグマチームが、午後に衣装や補正用の道具、カメラマン等を連れてやってくる予定で、衣装のフィッティングは居住スペースで行うことにした。その後は、定光と滝川がショーンの生まれた町をロケハンに、エニグマの他のスタッフはショーンのサイズに合わせての衣装の仕立て直しと控えの衣装の制作に取り掛かる手筈となった。
案の定、定光が見立てた衣装は、質素ながらもショーンによく似合った。
イギリスの時代劇ドラマに出てきそうな硬派なイメージのそのスーツは、ショーンの鮮やかな赤毛や夕焼け色の瞳をより魅力的に見せた。
30を間近に迎え、デビュー当時の若くみずみずしい魅力とは縁遠くなったものの、落ち着いた男の色気のようなものが出てきて、更にその魅力が増している。
実際のショーンは、口を開くとマシンガンのように早口で話すので、それを見ている限りでは実年齢より若々しいイメージがするが、こうして黙ってカメラを見つめている彼は、非常に色気がある大人の男といった雰囲気だ。改めて、ショーンの姿の良さを痛感させられた。
定光は、滝川がスーツを初めて着た時のことを思い出した。
あの時も、普段の騒々しい滝川からは想像もできないほど、"いい男"に見えたものだ。
それを考えると、ショーンと滝川はどこか似ているのかもしれない。 ── もっとも、ショーンは滝川と違って、ちゃらんぽらんなところはないようだが。
フィッティングの後のロケハンは、理沙に同行してもらって行う予定だったが、急遽ショーンもついてきてくれることになった。
なんでも、いまだにちょくちょく実家に帰っているらしい。
C市の中心部より、生まれた町の方がよっぽど安全に過ごせるとショーンは言った。
なんでも、ショーンがバルーン脱退騒動で騒がれた前後、町の人達が失意のショーンを攻撃的なマスコミ連中から守ってくれたらしい。その流れがいまだに続いているとのことだ。「だからこそ、この街が離れがたいんだよね」とショーンは笑ったのだった。
ショーンの生まれ故郷は、想像通りの寂れたアメリカの田舎町そのものだった。
湿気を帯びた空気が黄茶けた風景に纏わりつき、白いペンキが剥がれたポーチに座る黒人の老婦人達が訝しげにこちらを見つめてきたが、ショーンが手を振ると、彼女達は忽ち朗らかな笑顔を浮かべ、手を振り返してくるのだった。
お世辞にも栄えてるとは言い難い町のメインストリートでも大体似たようなもので、幾人ものショーンの"知り合い"が、手を振っては挨拶をしていった。
滝川は、盛んにハンディカメラを回していた。
かなり興味を惹かれたらしい。
時には、ショーンにお願いしてもらって、町の人が佇むショットをかなり撮影していた。言わずもがな、先ほどの黒人女性達も撮影した。
彼のカメラは、ハンディとはいえ、かなりの高性能なカメラなので、ひょっとしたら本番のVTRにも入れるつもりなのかもしれない。
その様子を見ていたショーンが、ふいにこう言った。
「いいアイデア浮かびそう?」
滝川はニタリと笑って、「もう浮かんでる」と答える。
その発言に、ショーンや理沙が驚いたような表情を浮かべた。だが定光にとっては、「よくある」パターンだ。
大概滝川は、クライアントとの初回の話し合いの最中にどんなVTRを撮るのか、イメージを固めることがよくある。
それは、滝川の感性がその仕事とフィットすればするほど、あっという間にアイデアが映像となって浮かんでくるらしい。逆に初回の打ち合わせで何も浮かんでこない場合は、仕事のできとしてもあまりいいものにはならないことは、過去の経験上、定光もよくわかっていた。
ということは、今回のプロジェクトは成功する方向にきちんと進んでいるのかもしれない。
ショーン達に「俺は天才だから」と平然と宣う滝川の頭を後ろから叩いてツッコミを入れつつも、定光はおぼろげに「自分も新に置いていかれないように頑張らなくては」と思ったのだった。
その後、定光達はショーンの実家を訪ねた。
アメリカ南部の素朴な一軒家であるその家には、父親とスタジオの内装デザインをしたという"叔父さん"が住んでいるらしい。
ショーンが幼い頃両親を一度に亡くし、今の養父に引き取られて育てられたことはとても有名な話だ。
その養父は元アメフトの有名な選手だったらしく、膝を怪我して引退してからというもの、この町の高校でコーチ業をしているらしい。
この日も家には誰もおらず、ショーンが持っている鍵で家の中に入った。
家の内装も外観と同じく素朴なもので、壁には養父の現役時代の写真やショーンの幼い頃の写真などがたくさん飾ってあった。
スターの実家と言うには些か拍子抜けするぐらい"ごく普通の"家だ。
なんでも、ショーンが建て替えようかと提案しているものの、養父が頑として首を縦に振らないらしい。
「凄く堅実な人なんだ」
ショーンはそう言って、照れくさそうに笑った。
ショーンの芸能人離れした素朴さは、きっと養父の教育の賜物なんだろうと定光は思った。
理沙が電話でエニグマ本部に仕事の進行状況を報告している間、ショーンは大ぶりのマグカップになみなみと注がれたコーヒーとドーナツを持ってくると、「今夜は家に泊まればいいよ」と定光達に言った。
「家に?」
定光が訊き返しながら実家のリビングルームを見渡すと、「ああ、違う違う。ここのことじゃないよ。スタジオの方」とショーンは言った。
マシンガントークのショーンも、定光に対してはゆっくりと話してくれるので、定光も正しく意味を理解できる。
しかし定光は、顔を顰めた。
なぜなら、午前中に見せてもらったスタジオ奥にあるショーンの私室エリアには客間のようなものはなく、リビングとキッチン、バスルームに寝室がひとつと、お客が泊まれるような部屋ではなかったように記憶していたからだ。
── リビングのソファーで寝ろってことかな……。しかし、コイツと二人では眠れないよな……。
定光が横目で滝川を見ると、滝川は新たなタバコを咥えつつ「ホントにあの部屋で寝てねぇんだ」と言い返した。
「ああ、実はそうなんだ」
定光が目を丸くしてショーンを見ると、ショーンはぺろりと舌を出した。
「これって、絶対にオフレコでお願いしたい情報なんだけど」とショーンが言う。「もちろん秘密は守ります」と定光が返すと、ショーンはそのオフレコ話を始めた。
「スタジオの奥にある僕の部屋は、カモフラージュのための部屋で殆ど使ってないんだ。実は」
「じゃ、本当の家は一体どこに………」
「反対側のアパートメントの一室。僕の恋人が以前から住んでいる部屋で、秘密の通路で繋げたんだ。外から絶対に見えないようなところで」
一瞬ショーンが何を言っているのかわからなくて、定光は言葉を失った。
代わりに頭の回転が早い滝川が、キャッキャとさも面白そうに奇怪な笑い声を上げた。
「マジかよ! クレイジーだな! ビルを無理やり繋げただって!? 向こうのアパートメントのオーナーはそれを許したってのか?」
「許してもらえなかったから、相場の倍の金額を提示して売ってもらった」
「ぶはははは! こりゃ最高だ! スケールがクソでっかいバカ話だ!」
滝川はゲタゲタと笑ったが、定光は「えぇー…」と若干引き気味にショーンを見た。
不動産投資の狙いとかを度外視して、ただ単に恋人の部屋で穏やかな生活をしたいがためだけに不動産をごっそり買い取るだなんて、確かに買い物のスケールが違う。
さすがのショーンも、定光が引いたのがわかったのか、慌てた様子で何かを捲し立てた。
いつものマシンガントークでは、定光は聞き取れない。
滝川がそれを見越して、ショーンが言ったことを訳してくれた。
「ヴィンテージギター以外に金を使うことがないから、買えるだけの金が丁度余ってたんだってさ」
確かに、ショーンの暮らし振りと今まで売り上げたアルバム枚数を鑑みると、金は有り余る状態だったんだろう。
「今は余ったお金で財団を作ってて、AIDS基金やNPO団体とかに寄付してるんだよ」
ショーンが畏まった様子でそう言うものだから、思わず定光も笑ってしまった。
ショーンがそうまでして拘る恋人の家や、ショーンを魅了し続けている恋人のことに興味が湧いてきた定光なのだった。
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