act.02

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act.02

 滝川のキス騒動があった翌朝。定光は陰鬱な顔付きで、パトリック社3階にある映像制作部の事務室に出社した。 「おはようございます」  若手の社員・村上と笹岡から同時に声をかけられ、定光も「おはよう」と辛うじて笑顔を浮かべ、返事を返す。  荷物をデスクの横のカゴに投げ入れ、脱いだジャケットを椅子の背にかけて腰掛けた定光は、はぁと大きくため息をついた。 「どうしたんですか? ミツさん」  定光愛用のマグカップをデスクの上に置きながら、村上が訊いてくる。芳ばしいコーヒーの香りが若干ではあるが定光を癒してくれる。  定光はコーヒーをひと啜りすると、鼻の頭に小ジワを寄せるようにしながら少し顔を顰め、「今朝、触られちゃったよ」と呟いた。  今度は村上が派手に顔を顰める。 「ええ?! またですか?」  定光はまたコーヒーを飲みながら、頷いた。近くで聞いていた笹岡も呆れ顔で定光を見る。 「今月入って3回目じゃないですか」 「ああ」 「どこをやられたんです?」 「ケツ」 「誰に?」 「多分、後ろに立ってたOL。三十代半ばくらいの」  定光はそう答えながら、指で左目を擦る。  朝の通勤電車の中で、定光は痴漢にあうことが多々ある。  それは学生時代からそうだった。おそらく容姿のせいで狙われるのだろうが、隙が多いように思われるのか、それとも触られても怒りそうにないと見られるのか、定光はそういう輩を自然と引き寄せるらしい。  始末が悪いのは"相手が大体同じじゃない"という点だ。  年齢性別関係なく、アイツらは触りに来る。  特に、滝川にヒゲを剃られてからこの5年、被害数が年々増えている。  お尻や太ももを触られる程度なら我慢しているが、さすがに股間まで手が伸びてくる場合は、相手が後ろにいる場合でも、前を向いたまま「やめてください」とはっきり言うようにしている。  電車の中で突然そんなことを口にすると皆が何事かと定光を怪訝そうに見るが、当の痴漢犯にはそれなりに効果があるようで、手を引っ込めることが多い。  学生時代は怖くて声も出なかったが、さすがに回数を重ねてくるとこちらも慣れてくるというか、神経が図太くなってくるので、ここまで対処できるようになってきた。  それでも去年は、やめてください作戦にも懲りずに触り続けてきた痴女の腕を掴んで駅員室に引きずって行ったケースがあった。  通常男性の痴漢被害は駅員に信じてもらえないことも多いが、駅員も定光の容姿を見てすぐ納得してくれたらしく、真面目に取り合ってもらえた。その時は女性から懇願されて示談で済ませたが、それよりも会社に痴漢被害処理で遅刻する旨を連絡していたところ、なぜか滝川が駅員室に怒鳴り込んできたのに驚いて、逆に滝川の方を収めるのに苦労した。  聞くに耐えない暴言と罵りの数々を相手女性に浴びせかけ相手を号泣させたばかりか、すっかり興奮した滝川が手近なガラス製の灰皿を掴んで女性に向かって全力で投げつけようとしたので数人の駅員と共に必死で止め、さっさと示談にしたのだ。あのままにしておけば、逆に滝川が傷害罪で警察に連れて行かれる勢いだった。  村上の脳裏にもその時のことが過ぎったのだろう。 「それ、間違っても新さんには言わないでくださいよ」  村上は声を潜めてそう言う。定光は両手で顔を擦りながら、「わかってるよ」と答えた。 「 ── ああ、昨日の新といい、今週は災難続きだ……」  両手で顔を覆ったまま定光がそう愚痴を漏らすと、村上と笹岡が顔を見合わせた。 「まぁ、ミツさんは新さんの精神安定剤ですからねぇ……」  村上がそう呟いたので、定光は顔を上げた。  村上も笹岡も諦め顔で定光を見つめている。  昨日暴れかけた滝川が定光にキスをしたことは、既に社内中に広がっていた。だが社員の誰もが全く動揺せず、むしろそれで滝川が落ち着いたのならいいか、と好意的にその事実が受け入れられていた。普通の会社ならおよそ常識外れな反応だが。  定光はがっくりと肩を落とすと、「何だよ、俺は生け贄か?」と零した。 「全く、アイツといると気がおかしくなりそうだ……」  そのセリフを聞いて、笹岡が手近にあった何かを村上に向けて投げつけてくる。それを器用にキャッチした村上は、受け取ったお菓子の小袋を恭しく両手で定光に差し出しながら頭を下げ、「心中お察しします」と言った。  定光は横目で恨めしく村上を見ながら袋を受け取ると、袋を開けてクッキーを取り出し一口囓った。そしてハッとした表情を浮かべる。 「そういや昨日、新のヤツ、家帰った?」 「え? いや、多分帰ってないです。今朝見たら第一編集室のドアに使用中の札がかかりっぱなしだったから……」 「ええ?」  定光は痴漢話の時よりもさらに大きく顔を顰めさせた。 「アイツに徹夜仕事をさせるなって前にも言ってたじゃないか……。集中し出したら自分で止められないんだから、誰かが強制的に止めさせないと」 「そんなの、ミツさん以外無理ですよ」 「そうだけど……。ああ、やっぱり昨日は出先から直帰するんじゃなかった……」  定光は苛立った口調でそう呟く。そして再び村上を見上げると、厳しい口調で言った。 「寝ずに仕事したら酷い頭痛に見舞われるんだ、アイツは。そのまま不眠症になったりすることもある。脳味噌がオーバーヒートしちまうんだ。知ってるだろう?」 「……はい、そうでした。すみません」  定光はパソコンを立ち上げ、滝川のスケジュールを確認する。  幸い、笠山との打ち合わせと昨日撮影したVTRの編集だけで、対外的な予定はない。  定光はホッと安堵の息を吐き出すと、「村上は笠山さんに連絡して、今日の打ち合わせはキャンセルって伝えて」と言いながら席を立った。先ほど脱いだジャケットを再び羽織る。 「俺、"かねこ"に行ってくる。その間に笹岡は仮眠室を整えておいてくれ」 「わかりました」 「頼んだぞ」  定光は慌ただしく事務室を出て行こうとしたが、ふいに戸口で振り返ると、「あ、安息香のオイル、ディフューザーにかけるのも忘れずにな」と言い残し、出て行った。  村上と笹岡は再び顔を見合わせる。 「 ── なんだかんだ言って、新さんのこと一番心配してるの、ミツさんだよな」  村上はポツリと呟いた。  "かねこ"は、パトリック社の社員が多く通う老舗の定食屋だった。  鯖の味噌煮込定食やタラの西京焼き定食など、昔ながらの和定食を出してくれる店で、健康志向の強い定光も好んで通っている。  店は11時の開店で、この時間はもちろん開いてはいなかったが、常連のよしみで無理は聞いてもらえる。  まだ暖簾が内側に入ったまんまのガラス戸をノックすると、「はーい」との声と共に年配の女将の声が聞こえ、ゆっくりとした足取りで近づいてくるのが気配でわかった。  ガラガラと戸が開く。戸が開いた途端、大根を炊いている湿気を帯びた甘い香りがふわりと香った。 「あれ、また新ちゃん徹夜したのかい」  かねこの女将は、定光の顔を見ただけで事情を察してくれたらしい。 「すみません……」  定光が頭を下げると、「なんにも気にせんで。すぐに用意するから、腰掛けて待っといて」と定光の腕を軽く叩いてカウンターの奥に消えて行った。  定光はまだ薄暗い店内に入り、カウンター席に座ると、カウンターの中にいた女将の息子である大将にも頭を下げた。 「仕込みの忙しい時にすみません」 「いやぁ、定光さんも大変だね、いつも」  小気味いい包丁の音を響かせながら、大将が笑顔を浮かべる。定光も誘われるように苦笑いを浮かべた。  何かに没頭し始めると、食べることも忘れるのは滝川の"習性"だった。   ── 昨日、夕方の4時頃に俺が会社を出る時点で既に編集室にいたから、おそらくアイツは昨夜の夜から……下手したら昼から何も食べてない。  定光はうーんと唸って、大きく息を吐き出した。  本当なら会社の近くのコンビニで弁当を買ってもいいのだが、食に無頓着な滝川にはなるだけ質のいい食事を摂らせたかった。その点、齢80歳になる"かねこ"の女将が握る塩にぎりと、いりこできちんと出汁を取った味噌汁は、定光が考えるベストの選択だ。  滝川は日本人にしては大柄だし筋肉質の身体つきをしていて、またその行動についてもかなりエネルギッシュだから頑丈そうに思われがちだが、定光の見立てでは、滝川や周囲の人々が思っているほど丈夫ではない。  身体のキャパシティを超えて脳味噌を活発に動かすから、気づけば身体にガタがきている場合がほとんどだ。  滝川は無断で会社を休んだりすることが多いが、大抵は実のところ身体に無理が祟って起きられない場合がほとんどである。たまに深酒や女遊びが影響しての不摂生で無断欠勤することもあるからその印象が強いせいで、誤解されがちなのだが。実のところ、身体も精神も、本人が考えているよりずっと繊細なのだ。そのくせ虚勢を張りたがるから、始末が悪い。 「さぁ、お待たせ」  笹の葉に包まれた塩にぎりと味噌汁の入ったカップが差し出される。今日はそれに大根の煮物が入ったタッパーも手渡された。 「まだ浅煮えだけど、それはそれで美味しいから」  定光はまだ熱々のそれらが入ったビニール袋を受け取ると、笑顔を浮かべ「ありがとうござます」と言った。その両頬にエクボができる瑞々しい笑顔に、女将の顔も朗らかに綻ぶ。 「ミツちゃんの笑顔が見られて、こっちも若返るわ」  女将の分厚い手が、定光の頬を軽く叩いた。  定光は腰のポケットを探って、「しまった!」と声を上げる。 「財布忘れてきた……。ああ、すみません……」 「いいのよ。つけとくから。また来てくださるでしょう?」 「もちろん」 「冷める前に持って行ってあげなさい」 「ありがとうございます」  定光は再度礼を言って、会社に取って返した。  そのまま2階の編集室が並ぶ一画を目指す。  案の定、滝川がいつも使っている第一編集室のドアには、中指を突き立てた手のイラストと共に「開けたら殺す」と乱暴にマジックで書かれた"使用中カード"がぶら下がっている。  定光は躊躇いもなくドアを開けると、予想通りの光景に深いため息をついた。  光の入ってこない薄暗く狭い室内で、パソコンの大型画面だけが煌々と光っていて、青白い滝川の顔を照らし出している。  定光が横から滝川の顔を覗き込むと、目を真っ赤に充血させ、口をぽかんと開けたまま、瞬きもせずに画面を食い入るように見ている。  滝川は定光が部屋に入ってきたことにも気づかず、室内には、彼がカチカチとマウスをクリックする神経質な音だけが響いた。  パトリック社には滝川の他に3人のディレクターがいるが、そのディレクター達の仕事は、専任の編集スタッフが作業を行う。  入社当初は滝川もそれに習っていたが、編集スタッフに自分の意図がうまく伝わらないからと、結局自分がやり始めた。元々アメリカでも撮影から編集まで自分1人で作品を作っていたから、その方が性に合うんだろうが、滝川の場合はその作業にのめり込みすぎるのが難点だ。  編集という作業はある種底なし沼のような仕事で、画家がこだわり過ぎて一枚の絵をなかなか完成させられないのと一緒で、作業をしている本人が納得できない限り、続けようと思えば永遠に続けられる作業だ。  他人に編集を頼めば、そこに客観的視点も入るので、"キリ"というのもつけやすいが、滝川みたいなタイプが1人で編集室に篭り始めると、収拾がつかなくなる。  滝川新は、いわば画家で言えば、ダ・ヴィンチタイプだ。  人生の中で数々の作品を残したピカソや、パトロンの要求にマメに応えたラファエロやミケランジェロとは違う。ダ・ヴィンチは数々の優れたスケッチはたくさん残したが、結局生涯で完成させた作品は僅か十数枚程度だ。  むろん、滝川は現代の会社員であるし、パトリック社が請け負っているアーティストのMVや一般企業のCMには当然納品期限があるので、ダ・ヴィンチのように悠長な仕事の仕方はできないが、充分な制作時間が取れないのであれば、何かを諦めないといけないこともある。滝川の場合は、そこの折り合いが破綻している場合が多い。  だからこそ、定光が果たす役割は多い。滝川に"終わり宣告"が言えるのは、社内で定光だけだ。  滝川がなぜ定光の言うことだけまともに聞き入れているのかは、社内全員の……むろん定光本人も含め……謎なのだが、取り敢えず今はそれが機能しているのだから、会社はそれに頼るしかない。  パトリックには定光を始め、由井、藤岡と3人のプロダクションマネージャーがいるが、現状、定光以外の2人で3人のディレクターの仕事を段取りしている。しかし定光だけは、完全に滝川の専属だった。  4年前にグラフィック制作部から無理矢理配置換えされる形で与えられた仕事だが、社長や笠山らプロデューサー達に懇願されて、渋々飲み込んだ。  「お前しか滝川を制御できない」と言われれば、飲み込むしかなかった。なぜなら、定光もまた、滝川の仕事に惚れ込んでいたからだ。
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