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失敗したと思っても、もう遅かった。
開け放たれたバスルームの前で立ち尽くす美納桜使の視線の先、小宮山秋が一心不乱に浴室のタイルを磨いている。
マンションの一室をルームシェアしている二人は、ゲーム実況を生業としている。学生時代からの親友で付き合いはもう軽く十年を越え、親友からゲーム実況の相棒に変わり、今は相棒兼恋人でもある。二人のチャンネル登録者数は二百万を越え、その界隈でアキとサクといえば名を知らぬ者はいない。
最近の二人は互いにゲームコースを作り、それを相手にやらせるという実況をやっている。しかし、実際には実況とは名ばかりで、二人でぎゃあぎゃあと小競り合いをしながらゲームコースを進めていくという、ほとんど素に近い動画だ。それを、つい十分前までやっていたのだが、桜使の作ったコースが難しすぎて、録画時間が今までの最長を記録した。途中までは、いつものようにバカ笑いしながら、あーでもないこーでもないと楽しくやっていたのだが、時間が過ぎるにつれ秋が段々と苛立ち始め、後半はほとんど無言になってしまった。
そして、その結果がコレだ。
「なあ」
「んー?」
「それ、いつまでやんの?」
服の袖とズボンの裾をまくりあげ、裸足でごしごしとタイルを擦る秋の足下は泡だらけだ。二人とも割と几帳面な性格故、どちらも入浴後には軽く掃除をしてから出る。つまり、そんなに時間をかけて擦らなければならないほど汚れてはいないのだ。
「もうちょっと。大丈夫、別にサクが悪いわけじゃないよ」
うつむく秋の黒髪が顔を隠してしまっている。桜使は秋とは対照的な明るいキャロット色の髪に手を突っ込み、頑なな背中をため息混じりに見下げた。
秋は、とても温厚な性格をしている。だからといって怒らないわけではないが、桜使に不満をぶつけてくることはほとんどない。怒りや苛立ちを沈殿させ、それが溢れそうになると秋はいつもこうやって掃除に没頭する。それがわかっているから、桜使はその場を離れることが出来なかった。
自分が悪いわけではない。それは桜使にもわかっている。他人は、たかがゲームと笑うのかもしれないが、それを生業とする二人にとってはプライドがある。しかし、難しくしすぎたことを謝るわけにもいかない。それはそれで秋のプライドを傷付ける。だから桜使は悪くないし、秋だって何ひとつ悪くはない。
「俺が悪くないってことはわかってんだけどさぁ……なんつーか、別におまえだって悪くねぇし」
「そうだね。どっちも悪くないよ。俺はただ、出来ない自分に苛ついただけで、サクに苛立ってるわけじゃない」
秋は『出来ない』と言うが、決してゲームが下手なわけではなく、桜使のほうが上手すぎるのだ。桜使はミスをしても必ず次にはそれをリカバリーしてくる。コースの先を読む能力にも長けているし、同じミスは二度としない。秋がどんなに難しいコースを作っても、桜使は鮮やかにそれをクリアしてみせる。爽快で痛快で見事としか言いようがない。そんな桜使が秋は好きだし、そのゲームセンスに醜い嫉妬を抱いたこともない。
だが、やはり時々恨めしくなるのだ。自分が必要以上に出来ないのではなく、桜使のほうが異常なのだとわかっていても、同じ場面で同じミスを繰り返す自分に秋は苛立ってしまう。時間がかかっても腐らず楽しくやることをモットーにしているのに、今日はそれが出来なかった。秋は、それが情けなく、そして不甲斐ないのだ。
「難しかった?」
「うん、まぁ」
依然として床ばかり見つめている秋に、桜使は言うべきか言わざるべきかと少し悩んでから、秋に視線を合わせるべく長い足を窮屈そうに折りたたんだ。
「あのさ」
「うん」
「こっち向けよ」
秋が渋々、桜使のほうへと首を動かす。脱衣場と浴室を区切る、ほんの少しの段差。そこに桜使がちんまりとしゃがみこんでいるのを見て、秋は思わず笑顔になっていた。かわいい。言うと怒るから口には出さないが、小さく膝を抱えているのが子供みたいでかわいいなと秋は思う。
「難しかったかもしんないけど……アキの好きそうなコースにしたんだよ。したっていうか、したつもりなんだけど」
「え、あぁ……うん。ギミックとか嫌いじゃない。難しかったけど、いいコースだったよ」
「ん。それだけ言っておきたかった」
桜使は、秋の悔しがる顔ではなく、喜ぶ顔を想像してコースを作ったのだ。それは秋も同じことで、難易度云々よりも桜使が好きそうなコースであることのほうが重要で……。
「サク」
「なん、っ、おわっ! バカ! おまえバカ!」
立ちあがろうとした桜使の腕を秋が掴んだ結果、前のめりになった桜使がタイルに手をつき、泡で滑るという悲惨な状況。
「ごめん」
「ほんとにな」
「あ、違う。滑ったのもごめんだけど、最後まで楽しくやれなくてごめん」
「……いいよ、もう。編集はおまえやれよ」
「了解。じゃあ、とりあえず……」
秋の両手が桜使の頬に当てられる。
「泡」
「今さら」
泡のついた濡れた手で頬を挟まれたことに、桜使は小さくため息をこぼしてから目を閉じる。心の中で、なにがとりあえずだよと毒付いてみるが、くちびるが重なるとそんなことはどうでもよくなっていた。
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