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「これ、思ったよりかなり美味しいわ。味見してみたら?」
そう勧めると、壮介は素直にパンダを丸ごと口に放り込んだ。もごもごと食べながら、店舗の方をじっと見ている。
珍しい。全く文句を言うこと無く、壮介が物を食べている。食べ物は食べない、飲み物はビール、押し付けられる事は全て拒絶する、現住所・天の岩戸、みたいな男だったのに。
「……パンダ……」
華也子は更に驚愕した。
パンダ。
「パンダ」だ。
壮介が「パンダ」と言ったのだ。
通学していた四年の間もその後も、知る限りただの一度も、パンダを見に行った事も無ければ「パンダ」と言う名を口にした事も無かった壮介が、パンダを食べた上に「パンダ……」などと、呟いている。
「……壮介?」
「……何だ。」
ガラスの向こうでパンダが続々と焼き上がるのを見ながら何か考えていた壮介が、表情は不機嫌そうなまま、こっちを向いた。その顔と「パンダ」が余りにも不似合い過ぎて、思わず吹き出す。
「何なんだ、お前……」
「んー?なんでもないわよ?行きましょ、残りのパンダは先生に謹呈するわ」
食べかけだろ失礼だぞ、と文句を言われる。それも新鮮だ、妻のすることに干渉しない夫だったのに。
久し振りに会うかつての夫の、本人も気付いて居るのかどうか分からぬ位の小さな変容。これはなかなか楽しめそうだ──華也子は壮介の横顔を見ながら、にんまりとひとり笑った。
【終】
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