SCENE3:エレベーター

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 エレベーターに乗り込んだ菊田灯始(きくたとうじ)は相も変わらず不機嫌そうで、その相方である藤光太郎(ふじこうたろう)は、相も変わらずビクビクと菊田の顔色を窺っていた。  芸人コンビ『菊藤』といえば、その界隈で名を知らぬ者はいない。関西の野犬、それが菊田の通り名だ。とにかく粗暴で理不尽。客と殴り合いの喧嘩をする、生放送をすっぽかすなんてことは日常茶飯事で、二人が出禁になった劇場や店は数知れず。そして、何より菊田を有名にしたのは、謎の失踪『空白の二年』だ。  二十六歳の時、ある日を境に菊田は忽然と姿を消した。最初はいつもの気まぐれだろうと周囲は気にも留めなかったのだが、一週間経っても、一ヶ月が過ぎても菊田は姿を見せず、藤は血眼になって菊田を探したが、ついぞ藤が菊田を探し当てることはなかった。  周りからは、これを機に解散してピンでやっていくか、新しい相方を探したほうがいいと言われたが、藤は頑としてそれを聞き入れなかった。勝手に解散など菊田が許すはずもない。新しい相方なんか迎え入れたら殺されてしまう。そんな想いが藤にはあり、そしてそれは絶対だった。  周りがなんと言おうと藤の相方は菊田しか存在しないし、誰がなんと言おうと菊田は藤の絶対で、菊田のいない二年は藤にとっては地獄に等しいものだった。  あれから五年。二人は共に三十路を過ぎ、藤には妻も子供もいる。それでも、今も尚、藤を支配するのは目の前にいる男ただ一人なのだ。 「藤、ガキは元気か」 「あ、うん」  失踪から二年。ふらりと自分の前に現れた菊田を見た時、藤は号泣し、そんな藤を見て菊田は爆笑した。なに泣いとんねん、ほんでなに勝手に結婚してんねん、ふざけんなと。爆笑しながら殴ってきた菊田の姿は、今も鮮やかに藤の脳裏に焼き付いている。 「嫁は気に食わんけど、ガキはおまえにそっくりでええな。そこだけは、おまえの嫁ええ仕事したわ」  失踪当時から菊田は藤の彼女の存在を知っていたはずだった。当時は、それについて菊田から何も言われなかったが、結婚を考えていると言った時だけ、わずかに表情を変えた。菊田がいなくなったのは、それから数日後。菊田から話すことはないし、藤のほうから聞くこともないが、失踪の原因はそれだったのではないかと藤は思っている。  菊田不在のまま藤が結婚などするはずがない。多分、菊田はそう思っていたのだろう。実際、藤は結婚を渋った。しかし、子供が出来てしまい、結婚せざるを得なくなった。結婚したくなかったわけではない。ただただ、菊田が不在のままの結婚が藤は嫌だったのだ。  菊田は、勝手に結婚しやがってと藤を殴ったが、藤の息子『光輝(こうき)』のことは気に入っている。藤には、それが意外だった。子供など到底好きそうではない菊田が、光輝のことはかわいがっている。おまえにそっくりやん。そう言って菊田が光輝を抱きあげた時、藤は息子に嫉妬すら覚えた。 「もし、子供が女の子とかで、俺に似てなかったらどうしてた?」  藤の質問に、菊田がぴくりと眉を動かす。性格に難はあるが、菊田はひどく整った顔をしている。穏やかに微笑んでいれば、その顔は綺麗という称賛にも値するが、藤は菊田の険しい顔が好きだった。 「殺してたかもな。おまえを」  かすかに笑って、だってそうやんかと続ける。 「俺のおらんとこで勝手に結婚して、その理由がガキが出来たからで、ほんでそのガキが嫁にそっくりとかやったら最悪やん。嫁にそっくりなガキのために、おまえが勝手に結婚するとかありえへん」  せやろ? と問われ、藤は大きく頷いた。  目的の階に付きエレベーターがちんと音を鳴らすと、菊田がチッと舌を打ち開閉ボタンの『閉』を連打する。開きかけた扉がゆっくりと閉じていく。 「菊?」 「話、終わってへん。おまえは? 俺がおらん二年どうやった?」 「どうって……地獄やったよ」  しゅんと眉を下げる藤を見て、菊田が満足そうに頷く。 「当たり前や。罰やから。結婚せんと、ええ子で二年待ってたらご褒美やろうと思ってたのに、おまえあほやな」 「……ご褒美、なにやったん?」 「ん? パートナー契約」  当たり前のように、なんてことはないように言われ、藤は目の前が真っ暗になり足下から崩れ落ちそうだった。まさか菊田が、そんなことを考えていてくれたとは、にわかには信じ難い。けれど、藤が彼女との結婚を考えていると、そう話したからこそ、目の前の男は姿を眩まし自分を試したのだと、藤は嬉しいような泣きたいような死んでしまいそうな気分だった。 「離婚なんか考えんなや? 離婚なんかしたら、ガキを嫁にとられてまうぞ」 「菊……」 「なんでガキなんか作ったんや。ほんま、あほやな」  うつむく藤に菊田の手が伸びてくる。粗暴で理不尽で身勝手でどうしようもない男が唯一愛しているのが、気弱でバカでどうしようもない藤なのだ。菊田の手が藤の胸元を掴み、ぐいと下へと引き下げてくる。十センチの身長差はこういう時に面倒だと菊田はチッと舌を鳴らし、そして藤のくちびるへと噛みついた。
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