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風が生温い。九月も半ばを過ぎたというのに台風が近付いているせいか、湿った生温い風が男の顔を打ち男はかすかに苦笑した。
今日、会社を辞めてきた。もともと入りたくて入った会社ではないし、嫌になって辞めたのだから未練はなにもない。口ばかりのパワハラ上司、要領よくサボる同僚、断れない飲み会に残業。そんなものはどこの会社にもよくある話だが、溜まりに溜まった不満やストレスが、些細なことでコップの水をあふれさせてしまうこともよくある話で、男が衝動的に辞表を上司に突き付けたのも正にそれだった。
要らないと先に断っておいたにも関わらず用意されていた大きな花束は、もはや嫌がらせだとしか思えない。どこかで捨ててやろう。そう思っていたのに、ゴミ箱はまだ見つからず、男は仕方なくいつもの駅前広場へと向かった。
仕事の帰りに通る駅前広場には、いつも歌が流れている。機械から流れる歌ではなく、生きた人間が歌う歌だ。ギターを手にひょろりと背の高い青年がいつも歌っている。男は、その歌を聴くのが好きだった。唯一の癒し。だから、この花束をあの青年に贈ろう、男はそう決めた。
広場につくといつもの歌は流れておらず、青年がケースにギターを仕舞っているところだった。見慣れた後ろ姿に、ちょっと待ってくれよと思う。ギターケースを肩に担ぎ、こちらを振り返った青年と目が合い、男はわずかに顎を引いた。
「今日、遅かったんですね」
黒のカットソーに細身のデニム。身長は男と変わらないが、華奢な分、すらりと見える。
「あー……っと、今日はもう終わり?」
青年の色素の薄い瞳がくっと細められ、男の手にある大きな花束を面白そうに見た。痩せた野良猫のようだと男は思う。
「サラリーマン?」
「……今日までは、ね。会社、辞めたんだ」
「へえ。じゃあ、もう聴きにこない? 帰り道だったんでしょ」
「どうかな。君の歌は好きだけど」
「名刺ある? サラリーマン人生の最後に俺に一枚ちょうだい」
「最後って。またどっかの会社でサラリーマンやるかもしれないし」
男は笑いながら胸ポケットから名刺を取りだし、青年に差し出した。
「……冨樫、天明? かっこいい名前」
「名前負けしてるよ。君は?」
「カイ。小野寺開」
「どんな字?」
「開く」
「あぁ……似合うね」
野良猫のようだが意外になつっこいなと、冨樫は小さく苦笑する。そして、この花束をどうしたものかと思案していると、開は肩からギターケースを降ろしケースを開きはじめた。
「歌ってくれるの?」
「うん。一曲だけね」
時刻は午後の九時をまわり、行き交う人は雨の気配を感じてか足早だ。
「じゃあ、まぁ。冨樫さんのために?」
おどけて笑う開に、冨樫も笑顔で頷く。開の細く長い指が弦を弾き、ミディアムスローのバラードが奏でられていく。生温い空気を蹴散らすように、甘く掠れる歌声が響き、それはどんな言葉よりも今の冨樫の心に深くしっとりと沁みていった。
いつも聴いていた。いつも見ていた。それは、開も同じだった。いつも少し離れたところからスーツ姿の冨樫が歌を聴いているのを、開はいつも気にしていた。白いシャツとネクタイ。黒のビジネスカバン。先の尖った革靴。それらは、もう今日で最後なのだと思うと、ほんの少し残念だなと開は最後のフレーズを歌いきった。
「ありがとう。これ、お礼に」
もらってくれる? と、差し出された花束は温室育ちのフリージアで、美しく折り重なる花びらと甘い芳香に、開は思わず冨樫のネクタイを掴んでいた。右手でネクタイを掴み寄せ、左手で花束を受け取り、その花束に隠れるようにして冨樫に口付ける。
「……え。え? なんで?」
「いや、俺もわからん」
「……君、何歳?」
「二十二」
「六つも下じゃん」
「あ、雨」
とうとう降りだした雨に、冨樫は雨宿りの提案をすべきかどうか、サラリーマンの真面目顔で思案するのだった。
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