01. おさななじみ

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01. おさななじみ

 ――7時35分。  1ヶ月も経てばしっかりつかめた。毎朝、彼に会える時間。  いってきます、の挨拶もそこそこに飛び出したいつもの通学路。視線を飛ばした先には、今日も見慣れた背中があった。  小さな頃から何度見てきたかもわからないのに、やっぱり目にした一瞬、胸の奥が沸き立つその背中。ほんの少し残っていた月曜日の憂鬱なんてあっという間に吹き飛んで、足取りが軽くなる。  途端、浮き立つ気持ちを抑えきれなくなって、あこはすうっと大きく息を吸った。 「ゆーくんおはよ! 偶然だね!」  バカみたいに弾んだ声が、静かな通学路に響き渡る。けれど彼の足は止まらない。いつものことだ。  あこはいつものように全速力で数メートル先の背中へ駆け寄ると、高い位置にある肩を叩いた。すらりとした後ろ姿は今日も惚れ惚れするほど気持ちよくて、本当は抱きつきたくなったのだけれど、前に通学路でそんなことをしたら、彼にけっこう本気で嫌がられたのでやめておく。  だけどこちらを振り向いたゆーくんは、やっぱりどこか不機嫌そうな顔で 「偶然じゃなくて、時間合わせてんだろ」  それだけ呟くと、またすぐに前を向いて歩き出した。  ゆーくんは低血圧だから、朝はいつも機嫌が悪い。あこは気にせず、歩幅をゆるめず歩き続ける彼の隣に小走りで並ぶ。そうして今日も惚れ惚れするほどかっこいい彼の横顔を眺めながら 「ね、ゆーくん。ゆーくん、今日も部活あるの?」  尋ねると、「そりゃあるよ」とうんざりした調子の声が返ってきた。 「部活は基本毎日ある」 「そっか。終わるのってやっぱり7時近くなるかな」 「たぶん。言っとくけど放課後遊ぶとか無理だから。部活終わりにそんな体力残ってない」  お誘いは口にする前にばっさり断られてしまい、うう、と思わず情けない声を漏らすあこに 「なに、どっか付き合ってほしいところでもあんの」  面倒くさそうな顔をしながらも、ゆーくんはしっかり訊いてきてくれた。こういうところが優しい。  あこは弾かれたように顔を上げると、「うん!」と大きく頷き 「水族館! 水族館に行きたいなあと思って」 「は?」  意気込んで告げれば、ゆーくんは思い切り眉をしかめてこちらを見た。 「なに急に。つーか水族館ってどこの。このへんないだろ」 「あ、あこ昨日ちゃんと調べたよ。T市に大きな水族館があるんだって。駅の側だから、電車で行けばすぐらしいし」  ちょっと誇らしげに告げながら、昨日印刷しておいた広告を鞄から取り出す。  ゆーくんに渡すと、ゆーくんは怪訝そうな表情でそれに目を通しながら 「てか、なんで急に水族館なんだよ。お前、そんなに魚好きだったっけ?」「ううん、魚っていうか、カメが」  そう言ったとき、ふいにゆーくんの足が止まった。水族館の広告を眺めていた視線があこのほうを向く。 「……カメ?」 「うん。ほら、前になめ吉っていたでしょ。ゆーくんの家に」  まじまじとあこの顔を見つめるゆーくんの表情が、眠たそうなものから、ほんの少し真面目なものに変わる。  ゆーくんはなにかを考え込むようにちょっと黙ったあとで 「……いたけど。なんで今更なめ吉」 「それがね、昨日、なめ吉の夢見たんだ。それで思い出したの。そういえばもうすぐなめ吉の命日でしょう。たしか五月だったもんね」  命日、とゆーくんはなんだか渋い顔であこの言葉を繰り返してから 「その言い方やめろよ。べつに死んだわけじゃないだろ。川に逃がしただけだ」 「あ、そうだよね。ごめん。あのときゆーくん、死んじゃったみたいにすごい泣いてたから、なんかそういうイメージが」  ゆーくんはちょっと顔をしかめてあこの目を見つめ返したあとで、ふたたび歩き出した。さっきまでより歩くペースが上がっている。  あこはあわててゆーくんの隣に並ぶと、「ごめんね、ごめんね」ともう一度早口に謝ってから 「だからね、急になめ吉のこと思い出して、そしたらカメが見たくなって。水族館行きたいなあって」 「じゃあ一人で行ってこいよ。俺はべつに見たくなってない」 「でも最近、全然ゆーくんと遊べてないから、たまには一緒にどこか行きたいなあって。放課後も土日も、ゆーくん、いつも部活部活だし」 「しょうがねえだろ。俺はお前と違って忙しいんだよ」  つれなく突っ返された言葉に、あこは足を止めた。  ゆーくんは無視して歩き続けていたけれど、十歩ほど進んだところで結局足を止めた。あこのほうを振り返る。それからうんざりした様子でため息をつくと、「さっさと来いよ」とつっけんどんに声を投げてきた。  だけどゆーくんはあこを置いて行ったりはしない。絶対に。それだけは知っていた。 「ゆーくん」 「なんだよ」 「水族館、行きたい」  ゆーくんは今度こそ思い切り顔をしかめてあこを見た。  数秒の間のあとで、はあ、ともう一度大きなため息をつく。それからふたたび渡されたパンフレットに目をやると 「でもここ、部活なかったとしても平日の放課後に行くのは無理だろ。T市ってけっこう遠いじゃん」 「え、そうかな。頑張ればなんとかなるかなって思ったんだけど」 「行けたとしても、たぶん見て回る時間とかほとんどねえぞ。それでいいわけ?」 「え、あ、そっか……」  ううん、と道の真ん中に立ち止まったまま思わず考え込む。  するとゆーくんはなんだかあきらめたような表情で再度ため息をついてから 「今度の土曜は?」  と言った。  へ、ときょとんとして顔を上げれば 「お前、今度の土曜はなんか予定あんの?」 「え? あ、な、ないけど」 「じゃあ土曜にしようぜ。さすがに放課後T市まで行くのはきつい」  短くそれだけ言ってふたたび前を向いたゆーくんの背中を、あこはしばしぽかんとしたまま眺める。  そして数秒の後、ようやく、えっ、と喉から声を押し出した。 「土曜日? ゆーくん、土曜日にあこと遊んでくれるのっ?」 「だって行きたいんだろ、水族館」  心底うんざりした調子だけれど、いつだってあこの言葉を受け入れてくれるその返答は、もう何度聞いたかもわからない。あこのいちばん好きな、ゆーくんの声だった。  やったあ、と声を上げながら、さっさとへ前へ進んでいくゆーくんの背中を小走りに追いかける。そのまま勢いに任せて抱きつきそうになったけれど、それはなんとかすんでのところで堪えた。  代わりに彼の腕に手を回し、身体を寄せる。すぐさま容赦なく振り払われたけれど、浮き立ったテンションはまったく沈むことなく 「ありがとうゆーくん! 土曜日ってことは休日だから、もしかして一日中一緒?」 「んな朝っぱらから行く気はねえぞ。行くとしたら昼からだ」 「えーっ、せっかくなら朝から行こうよ。なんかそのほうがお得な感じするし!」 「やだよ。朝からお前のテンションに付き合ってたら死ぬ。つーか休日の朝くらいゆっくり寝かせろ」  えー、と唇をとがらせてみたけれど、ゆーくんもさすがにここは譲る気はないみたいだった。  まあいいか、とすぐにあきらめて、もう一度ゆーくんの腕にぎゅっと手を回してみる。ゆーくんは露骨に顔をしかめてあこを見たけれど、今度は振り払わなかった。  代わりに辺りを軽く見渡す。まだ始業時間に遠い通学路には人通りが少ない。それを確認して、妥協してくれることを決めたみたいだった。きっと学校に近づいたらまた容赦なく振り払われてしまうのだろうけれど、それまでは存分にくっついていることにして、彼の腕に頬を寄せる。 「暑苦しい」  上からぼそりと降ってきた声は、聞こえない振りをした。  ちらっと窺ったゆーくんの表情は本当に暑苦しそうで、だいぶしかめっ面になっていたけれど、気にしなかった。学校に近づかない限り、ゆーくんが振り払わないことはわかっていたから。 「楽しみだねえ、土曜日のデート」 「べつにデートじゃない」  間髪入れず返ってきた素っ気ない声も、聞こえない振りをする。それより土曜日の約束を取り付けられたことが嬉しくて、ひとりでに口元がゆるんでしまう。  えへへとふやけた笑みをこぼすあこを、ゆーくんは思い切りあきれた顔で見下ろしていた。かまわず身体を寄せる。知っているから怖くはない。ゆーくんがどれだけ不機嫌そうに顔をしかめていても。あこが彼に振り払われることはない。水族館のお誘いが断られないことも。  本当は、全部わかっていたから。
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