11. ただ、それだけ

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11. ただ、それだけ

 ――7時35分。  1ヶ月経ってつかめた、彼の登校時間。  いつもと同じように、あこはその時間に家を出る。  そうして通学路に視線を飛ばせば、今日もちゃんと、惚れ惚れするほど気持ちいいその後ろ姿を見つけることができた。 「ゆーくんおはよ! 偶然だね!」  いつもと同じように、バカみたいに弾んだ声が辺りに響く。  けれどゆーくんの足は止まらない。これもいつもと同じ。  だからあこは全速力でゆーくんのもとへ駆け寄り、彼の隣に並ぶ。そうして、相変わらずいつ見てもかっこいい彼の横顔を見上げながら 「ね、ゆーくん。ゆーくん、今日部活ないでしょ?」  うきうきと喋りかければ、「は?」とゆーくんは怪訝そうな声を立て、そこでようやくこちらを見た。 「ないでしょって、なんだそれ。部活は基本毎日あるっつっただろ」 「でも今日から中間テストの一週間前だよ。部活もお休みになるはずだよ」  言うと、ああ、とゆーくんは思い出したように呟いた。どうやら忘れていたらしい。 「そういやもうそんな時期か」とひとりごとみたいに続けるゆーくんに 「うん、ね、だからね、どこか遊びに行かない? 今日の放課後っ」  浮かれ気味にそんな提案を投げかけてみれば 「はあ? なに言ってんだバカかお前」  思い切り顔をしかめたゆーくんに、そんな言葉でばっさり切り捨てられた。  思いのほか容赦のないその返答に、「へ、だめ?!」とあこが思わず情けない声を上げてしまうと 「だめに決まってんだろ。普段ぜんっぜん勉強してきてねえんだし、テスト一週間前にそんな余裕ない。テスト前くらい頑張んねえとマジで欠点とる」 「え、でもまだテストまで一週間もあるよ。一日くらい遊んでも全然大丈夫だよ、きっと!」 「お前のその根拠のない余裕は何なんだよ。だいたい亜子も俺と同じようなもんだろ、成績」  ゆーくんは呆れたように呟いて、一つため息をついてから 「とにかく、テスト終わるまで遊ぶのは無理だから」  と、あこがなにか言うより先にきっぱり釘を刺した。  それ以上の反論は許さないその口調に、うう、とあこはふたたび情けない声を漏らす。けれどそのすぐあとで、あっ、と今度は弾んだ声を上げ 「じゃあさ、ゆーくん、今日あこと一緒に勉強しようよ!」 「はあ?」  ゆーくんはまた思い切り顔をしかめてあこを見る。それからあからさまに嫌そうな表情で 「お前と一緒に勉強?」 「うん! ね、それならいいでしょ? ゆーくん、あこに勉強教えて?」 「だから俺、普段全然勉強してねえっつってんだろ。たぶんお前とどっこいどっこいの頭だろうし、教えられることなんてねえよ」 「え、違うよ、今はゆーくんのほうがあこより頭良いよ。ゆーくん、この前の模試、校内で225位だったでしょ。あこ、231位だったもん」  ねっ、とにっこりと笑ってゆーくんの顔を見上げれば、ゆーくんは眉をひそめてあこの顔を眺めつつ 「なんでお前、俺の成績までいちいち覚えてんだよ」 「そりゃ覚えてるよー。教科ごとの点数までばっちり。自分の分は忘れても、ゆーくんのは絶対忘れないよ!」 「そんなの覚えててどうすんだよ。つーかどうせひどい点数なんだし、さっさと忘れろよ」 「え、ゆーくん、そんなひどい点数じゃなかったよ。あこよりは10点以上良かったもん、大丈夫だよ!」 「全然慰めになんねえ、それ」  ゆーくんはなんとも微妙な表情で呟いてから、ふたたび前を向いて歩き出した。さっきより歩くペースが上がっている彼に、あこはちょっと急ぎ足でついていきながら 「あのね、あこもね、化学とかならけっこうできるし、ゆーくんに教えられることもあると思うんだ。だからお互い教え合いっこするってことでどうかな。一人でやるよりお得だよきっと。ね」 「バカ同士で教え合いしてどうすんだよ。どうせ教えてもらうなら、ちゃんと勉強できるやつに教えてもらったがいいだろ」 「ちゃんと勉強できるやつ?」 「金井とか普通に頭良いじゃん。あいつにでも教えてもらえば」  面倒くさそうにそんなことを勧めるゆーくんに、「あ、頭が良いといえばさ」とあこはふと思い出して口を開く。 「香月さんて、頭良いんだよね」  ふいにゆーくんの足が止まり、怪訝そうな目がこちらを向いた。 「……香月?」 「うん。この前の模試のときね、貼りだしてあった成績上位者の中に、香月さんの名前があったの。10位くらいだったかな。すごいよね」  言ってから、「あっそうだ!」とあこは人差し指をぴんと立ててみせると 「せっかくだし、あこ、香月さんにお願いしてみようかなあ」 「なにを」 「勉強教えてって」 「……そんなこと気安く頼めるほど、お前香月と仲良くないだろ」  ぼそりと挟まれた言葉に、そうだけど、とあこは軽く頷いてから 「でも香月さんってああ見えて絶対優しいから、意外と、お願いされたら断れないタイプだと思うんだよねえ。だから一生懸命頼んだら、たぶん引き受けてくれるんじゃないかなあって。ね、ゆーくん香月さんと仲良かったし、知ってるでしょ? 香月さんてそういうタイプじゃない?」  ゆーくんはなにも答えなかった。代わりに、見慣れた無表情であこの顔を見つめながら 「……勉強って、なに教えてほしいんだよ」 「へ、なにって?」 「だから、科目。なに教えてほしいの、お前」 「え、あ、えっとね」あこはあわててちょっと考えると 「たくさんあるけど、やっぱりいちばんは数学かなあ。微分とか積分とか、あこ、もうちんぷんかんぷんで」 「じゃあそれだけは教えてやるから、あとは自力でなんとかしろよ。俺もだいぶ切羽詰まってるし、ぜんぶ面倒見てやる余裕はないから」  そう言ってふたたび歩き出したゆーくんの背中を、あこはしばしぽかんと眺めたあとで 「へっ、ゆーくん教えてくれるの?! あこに勉強!」 「だから数学だけな。俺もそんなできるじゃないし、うまく教えられる自信はないけど」 「全然大丈夫だよ! ゆーくんが教えてくれるなら、あこ、ぜったい一発で理解できるよ!」  意気込んで声を上げれば、なんだそれ、とゆーくんは呆れたように呟いた。  そんな彼の隣にあこは小走りで並ぶと、そのままの勢いで彼の腕に抱きつく。そうして、「ありがとうゆーくん!」と彼の顔を見上げながら弾んだ声で告げようとしたとき 「もう学校着く」  素っ気なく言って、ゆーくんがおもむろにあこの手を振りほどいた。  目をやると、たしかにあと数メートルもすれば校門に差しかかるところだった。周りには、あこたちの他にも登校途中の生徒がたくさんいる。ようやくそれに気づき、「あっ、ごめんね」とあこがあわてて彼の腕から手を離すと 「じゃあ俺、部室寄っていくから」  ゆーくんはそう言って、校舎とは反対方向に足を向けた。  頷いたあとで、あこはふっと言い忘れていたことを思い出し、「あ、ね、ね、ゆーくんっ」と遠ざかろうとする彼の背中にあわてて声を投げる。 「ゆーくん、今日の昼休みっ。約束、忘れてないよね?」 「約束?」 「ほら、一緒にお弁当食べようって。あこと約束してたでしょ、昨日。忘れてないよね?」  言うと、ゆーくんはそこでようやく、ああ、と思い出したように呟いていた。やっぱり忘れていたらしい。もう、とあこはちょっと唇をとがらせてから 「約束だよ? 昼休みになったら、あこ、ゆーくんの教室に迎えに行くからね?」  はいはい、とゆーくんはこちらに背を向けながら面倒くさそうに頷いていたけれど 「じゃあまた昼休みにな」  別れ際にそう言って片手を挙げてくれたので、それだけであこは途端にごきげんになり、「うん!」と大きく頷きつつ、ゆーくんの背中に向けてぶんぶん手を振り返しておいた。  ゆーくんと別れたあと、下駄箱のところでちーちゃんに会った。おはようの挨拶だけであこの機嫌の良さを読み取れたらしいちーちゃんは 「今日も一緒だったの?」  と呆れたようにいつもの質問を向けてきた。だからあこも、「うん!」といつものように力一杯頷いてみせる。 「家出たところでね、偶然会ったから!」 「はいはい」  返ってきたのは、さっきのゆーくんみたいな面倒くさそうな相槌だった。いつもの突っ込みが返ってこなかったことに、あれ、とあこがちょっと拍子抜けしていると、ちーちゃんは靴を脱いで上履きに履き替えてから 「あ、そういえば亜子、あの話どうなったの?」  と思い出したように訊いてきた。「へ、あの話?」とあこが首を傾げれば 「ほら、サッカー部のマネージャーになるとか言ってたじゃん。結局どうするの? 本当になるの?」 「ああ、あれね、やっぱりやめた」  あっけらかんと笑って返すと、ちーちゃんは、へっ、と素っ頓狂な声を上げてこちらを見た。それから怪訝そうに眉を寄せ 「なによ、この前まであんなやる気満々だったのに。どうかしたの?」 「うーん、だってね、香月さん、サッカー部やめるらしいから」 「へっ、やめる?!」  再度素っ頓狂な声を上げるちーちゃんに、うん、と相槌を打って 「らしいよ。ゆーくんが言ってた」 「なんで急に? なんかあったの?」 「さあ。それはわかんないけど」  あこが肩をすくめると、ちーちゃんは不思議そうな目であこを見て 「ていうかなに、亜子って、香月さんがいるからサッカー部入ろうとしてたの?」 「え、ううん、そういうわけじゃないけど」 「でもさっき自分で言ってたじゃん。香月さんがサッカー部やめるらしいから、サッカー部入るのやめたって」  あー、とあこは曖昧に笑いながら指先で頬を掻くと 「まあちょっとだけ、どんな人なのかなあって気になってたから、香月さん。ゆーくんと仲良いみたいだったし。サッカー部に入ったら、あこも仲良くなれるかなあと思ってて」 「なんだ。やっぱり亜子、なんだかんだ香月さんと沖島くんのこと気にしてたんじゃない」 「うん、まあ、ちょっとだけね」  小さく笑って、あこも靴を脱ぎ上履きに履き替える。それからちーちゃんと一緒に教室へ向かい歩き出すと、「でもよかったね」と思い出したようにちーちゃんが言った。 「ん? なにが?」 「香月さんと沖島くんのこと。これであんまり心配する必要もなくなったじゃない。よかったね、亜子」  うん、とあこがにっこり笑って頷けば、ちーちゃんもつられるように笑顔になって 「ていうかあたしも嬉しいな。亜子がずうっと沖島くんのこと好きだったのは知ってたし、香月さんとくっつくくらいなら、やっぱりちゃんと亜子と上手くいってほしいと思ってたから。沖島くん」  そう言って自分のことみたいに嬉しそうな顔をしてくれるから、あこもなんだか温かい気持ちになり、うん、ともう一度強く相槌を打った。そのあとでふと言いそびれていたことを思い出し 「あっ、そうだちーちゃん!」 「なに?」 「そういえば今日ね、あこ、ゆーくんに勉強教えてもらうことになったんだ!」 「へえ、よかったね」  相変わらずちーちゃんは優しくそんな言葉を返してくれるので 「それでねそれでね、今日のお昼休みは、ゆーくんと一緒にお弁当食べることになってるんだ!」  ますます嬉しくなってそう続ければ、ふいにちーちゃんはちょっと苦笑するようにして 「あーあ。なんだかんだ亜子たちってラブラブじゃん」  ぼそっとそんなことを呟いた。 「へ、ら、ラブラブ?!」思いも寄らない言葉に、あこが思わず上擦った声を上げると 「だって沖島くん、ほんとに亜子のお願いなら何でも断らないし。結局香月さんとも何にもなかったみたいだし。最初はさ、沖島くんって亜子のことうざがってるようにしか見えなかったんだけど、最近じゃ、これももしかしたらただの照れ隠しなのかなって気がしてきたもん。ここまで亜子のお願い聞いてあげるって、やっぱり亜子のこと何とも思ってないってことはないだろうし」  ちーちゃんの言葉を聞いているうちに、また口元が勝手にゆるんでくるのを感じた。  そうかなあ、とあこは意味もなく前髪をいじりながら、にやにやと呟く。その声もどうしようもなくふやけていて、ちーちゃんは、はあ、とまた一つ大きなため息をつくと 「はいはい。もうお幸せに」  呆れたような、けれどどこか優しさの滲む口調で、そんなことを言った。  その言葉は、時間差で胸の奥にじわりと染み入ってきた。  喉奥からつんとする甘さとくすぐったさがこみ上げ、やがて口元に堪えきれないにやけが広がっていく。  お幸せに。  ああそうだ、あこはこれからもっと幸せになる。だってゆーくんは、これからもあこの傍にいるのだから。  そんなふうに十年間続いてきた日常が、あこにとっては何よりの幸せだった。  これからもずっと、この日常は続いていく。何にも変わることなんてない。誰にも、変えることなんてできない。なにがあっても、あこはこの日常を続けていくのだ。絶対に。  だからあこはこみ上げた甘さのまま満面の笑みを浮かべてみせ、「うんっ!」とこれまででいちばん大きく、頷いておいた。
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