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03. ふきげん
掃除の時間になり、水道へ雑巾を洗いに行ったときだった。
水道のところに、見覚えのある茶色い髪の女の子がいた。
けれどどこで会ったのかすぐには思い出せずに、雑巾を洗っているその子の後ろ姿をしばらくじっと眺めていたら、やがて気づいたその子が振り向いて、あこを見た。
そこでようやく思い出し、あっ、と声を上げる。
遠目に見ただけでも、すっと通った鼻筋だとかくっきりとした目鼻立ちだとかは確認できていたけれど、こうして間近に見る彼女はほんとうに完璧なまでの美人で、なるほど、たしかにちーちゃんの言うとおりだ、としみじみ頷きつつ眺めていれば
「……なに?」
顔を見るなり声を上げられたその子のほうは、怪訝そうに顔をしかめていた。
「あ、ごめんね!」と、あこはあわてて顔の前で手を振る。
露骨に不審そうな表情を浮かべている彼女に、そういえば朝はあこが一方的に見ていただけなのだから、香月さんのほうはあこのこと知らないんだ、ということに今更思い至り、とりあえず自己紹介を始めようとしたとき
「あ」
ふいに、香月さんがなにかに気づいたように声を上げた。しかめられていた顔が真顔に戻る。それからぽつり、「蓮見さん」と呟いた。
思いがけず口にされたあこの名前に、びっくりして、えっ、と聞き返す。そうして、あれっどこかで話したことあったっけ? とあわてて記憶を辿ろうとしていたとき
「沖島くんの、幼なじみなんでしょ。蓮見さん」
まるでこちらの心を見透かしたように、香月さんが言った。
唐突に出てきたその名前だけで充分だった。ああ、とあこはすぐに理解して呟く。途端くすぐったいような嬉しさもこみ上げてきて、ふにゃりと口元がゆるんだ。
「ゆーくんが、香月さんにあこの話したの?」
尋ねる声も思わず弾んでしまう。けれど香月さんはその問いには答えず、「なんで」とふたたび怪訝そうに眉を寄せた。
「なんで私の名前知ってるの?」
あっ、とあこはまたあわてて口を開く。
「ちーちゃ……あ、えっと、金井ちはるちゃん、あこの友達なんだけどね、ちはるちゃんから聞いたの。香月さんきれいだから、中学でも目立ってたって」
「ふうん」
香月さんはその話の内容にはなにも興味を示すことなく、短い相槌だけ打って、水道のほうに向き直った。中断していた雑巾洗いを再開する。
あこはその傍らで作業が終わるのを待ちながら、「あの」とおずおず喋りかけてみた。
背中まであるふわふわの髪は、色は明るいけれど艶があって、手入れが行き届いているのはよくわかる。短めのスカートから伸びる脚はすらりと長くて、モデルさんみたいだ。
「香月さんて、何組なの?」
「3組」
「あ、じゃあやっぱりゆーくんと同じクラスなんだ。ゆーくんとは仲良いの?」
そこでふいに、雑巾を絞っていた香月さんの手が止まった。
こちらを振り向き、さっきよりほんの少しけわしくなった表情で、あこを見る。
「……だったらなに」
「え?」
「べつに関係ないでしょ、蓮見さんには」
突っ返された言葉には今度こそあからさまに不機嫌な色が滲んでいて、「あ、ごめんね」とあこはあわてて続ける。それから
「ただ、なんというか、ゆーくんがお世話になってるのかなーなんて、気になって」
そう言ってへらっと笑ってみたときだった。香月さんはいくらか乱暴な仕草で蛇口を捻ると、身体ごとこちらに向き直り、まっすぐにあこを見た。
背の高い人だとは思っていたけれど、真正面で向かい合ってみると思いのほか身長差があって、ちょっと見下ろされるような姿勢になる。それだけで妙に気圧された気分になっていたのに、さらに香月さんは、散々バカで空気が読めないと評されるあこでもわかるくらいに、はっきりと、あこを睨んだ。
「そういうの、やめれば?」
「え」
「そういう彼女ヅラ。ただの幼なじみなんでしょ。沖島くん、迷惑してると思うけど」
刺々しさを隠そうともしない声に、一瞬、息が止まる。
咄嗟に返す言葉も思いつかず、呆けたように目の前の香月さんの顔を見つめ返せば、香月さんもその冷たい無表情を動かすことなく、じっとあこを見ていた。
短い沈黙のあとだった。ようやく、あ、と喉から声を押し出す。それから、「ご、ごめん」と、よくわからないながらもとりあえず謝ろうとしたとき
「――香月」
ふいに、後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、いつからいたのか、ゆーくんがあこのすぐ後ろに立っていた。あこがちょっと驚いている間に、ゆーくんは香月さんのほうをまっすぐに見て
「担任が呼んでたぞ、さっき」
それだけ、事務的に短く告げた。
そう、と香月さんのほうも短くそれに応えてから、あこの横をすり抜け、廊下を歩いていく。
その背中が少し遠くなったところで、ゆーくんはようやくあこのほうを向き直った。
「亜子」普段よりいくらか低い声で、口を開く。
「お前、あいつと何か喋ったのか?」
いつになく真剣な表情にちょっと緊張しながら、あいつ、と思わず繰り返せば
「香月と、何か喋ったのか? さっき」
真面目な口調のまま、ゆーくんは質問を重ねた。
うん、とあこは首を傾げつつ頷いて
「たいした話はしてないけど。何組? とか、ゆーくんと仲良いの? とか。あこはもっといろいろ喋ってみたかったんだけど、なんか香月さんがあんまり」
言うと、ゆーくんはちょっと顔をしかめ、「お前さ」と言った。
「あんまりいろいろ言い触らすなよ」
「言い触らす?」
思いも寄らない言葉にきょとんとして聞き返すと、ゆーくんは「昔の」と言いかけてから
「なめ吉の話とか」
思い直したように、そう答えを変えた。あこはますますきょとんとして首を傾げる。
「なんで? ゆーくん、なにか困る?」
「いいから。よけいなこと喋って回んなよ」
「あ、でもあこ、香月さんにはなめ吉の話してないよ」
「香月だけじゃなくて。お前の友達とかにも、いちいち喋んな」
怒っているようにも聞こえる強い口調に、思わず口をつぐむ。
ゆーくんはそれだけ言うと、あこがなにか返すのを待たず、くるりと踵を返した。そのまま、振り返ることなく早足に廊下を進んでいく。そうしてぐんぐん遠ざかる背中を見ているうちに、あこはにわかに悲しくなってきて
「ゆーくん、土曜日っ」
あわてて口を開くと、思いのほか情けない声が押し出された。
自分の耳に届いたその泣きそうな声に、ちょっと恥ずかしくなったけれど、ゆーくんが足を止めてこちらを振り向いたので
「あの、楽しみだねっ、水族館」
なんとかそれだけ言って、笑顔を浮かべてみた。
ゆーくんは、すぐにはなにも言わなかった。黙ったまま、なにかを迷うようにじっとあこの顔を見ていた。
数秒の後、やがて彼の唇がほんの少し曲がって、笑みの形を作る。そうしていつもと同じ、穏やかな中にちょっとだけ寂しげな色の滲む複雑な表情で
「そうだな」
と返してくれた。
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