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篠田結(高校三年)は、幸せの絶頂にいた。
今まで幾度となく恋をしては、告白すらままならないままに失恋を繰り返してきた。同性しか好きになれない。それは時として結をひどく後ろ向きにさせ、なんの因果もないであろう親を恨んだこともある。
きっと自分はこのまま、誰からも愛されず、高校を卒業したら二丁目をうろついて自暴自棄に生きるのだと、少し先の未来をぼんやりと想像してはため息ばかりこぼしてきた高校生活に、一筋の光を射し込んでくれた人物こそ、今、結がお付き合いしている宮近頼人である。
うまくいくはずなどないと思っていた。だけど、結の意に反し、頼人はフラットに結の気持ちを受け入れ、真面目に交際を申し込んできた。女性を恋愛対象とし、見た目も中身も申し分のない頼人が、だ。
結にとっては、もうこれ以上はない、この先も訪れることのない奇跡のような幸運である。だから結は、例えいつか別れる時がくるのだとしても、その一秒手前まで頼人との恋を大事に大事にしようと思っている。
ところが、だ。
「篠田さん、このあとうち来ない?」
部活後、頼人と帰路を共にするだけでも幸せなのに、この後輩は毎日のように家に来ないかと誘ってくる。
「なんで? もう遅いし……」
「別に何時間も居座れって言ってるわけじゃないし、帰さないって言ってるわけでもないんだけど」
「そうだけど……!」
頼人の部屋に行って、それから? ふたりきりでなにを? そう考えるだけで、結の頭はぐらぐらと沸騰し脳みそが耳から流れだしそうになる。
「篠田さんてさぁ……もしかして、付き合うの初めてとか?」
その問いに他意はないとわかっていても、結は冷や水をかけられたような気分になって、鬱蒼とした暗い影が心に落ちるのを感じた。
「そりゃ、チカはモテるだろうし、俺と違って今まで普通に恋愛してきただろうから、そうやって当たり前みたいに誘ってくるけどっ」
「え、ちょ、なに? なんで怒んの」
「うるさい! チカにはわかんないよっ」
頼人にとって学校帰りに恋人を部屋に誘うのは当たり前のことであっても、結にとってはそうではない。それに、今までもこうやって誰かを誘っていたのかと思うと、結は嫉妬で胸が焼け焦げそうだった。
「別に当たり前みたいに誘ってるわけじゃねぇんだけど……」
「え?」
頼人の顔を見ると困ったように眉尻をさげていた。
「俺は別に……今? 手つないだって、キスしたっていいんだけど、篠田さんは困るかなって思って」
だから部屋に誘ってるんだけど、と頼人が立ち止まる。
「え……え?」
「だから、あなたがいいなら手をつないで帰るし、キスもしたい時にするけど、そうじゃないなら誰にも見られない場所のほうがいいかなって話」
「え……なにそれ、え……待って」
手をつなぐ。キスをする。それは恋人ならば当たり前のことだ。だけど結は、頼人とそうなる未来を今もって想像したことがない。いや、そうなればいいなと妄想したことはある。だが現実に、こうして付き合うことになって、それを望んでもいいのだとわかっていても、果たして頼人はどこまでの気持ちがあるのだろうかと、結は完全には頼人の気持ちを信じてはいなかったのだ。
それなのに、頼人は当然のように、手をつなぐだの、キスをするだのと口にしてくる。
「まだ早い? つっても、もう二ヶ月は過ぎたんですけど」
「は、早いとか、遅いとか、わか、わかんないけど……」
「うん」
「い、いいの?」
「なにが?」
「だってチカ、ふつーに女の子好きだろ」
「はい? 今、俺が付き合ってんの篠田さんでしょ。なに、女の子って」
「だっ、て……」
こんなに幸せでいいはずがない。どうせいつかは終わるのだから、贅沢をしてしまったら、その先生きていけなくなる。そんな想いが結を締め上げると同時に、例えようのない嬉しさと切なさまで襲ってくる。もはや感情は迷子だった。
「なにをそんな深刻に悩んでんのか知らないけど、恋って衝動でしょ。電気が走るみたいな」
「なんか表現古くない?」
「うるさいな。とにかく、俺こう見えても健全な男子校生ですから、プラトニックなんて興味ないんだよ」
見上げた頼人の顔は、確かに限界の近そうな野生のオオカミのようで、結は知らず口からあまいため息をこぼしていた。
「……ちゃんと送るから、来て」
少し身を屈め懇願するような声色に、結は首の後ろがぞわりと痺れるのを感じていた。あらがうことの出来ない恋の衝動に、結は、ゆっくりと頷いた。
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