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「あきー、秋あきあき!」
名前を連呼しながら桜使が作業部屋へと入ってくる。深夜三時。ゲーム実況を生業とする二人にとって、深夜三時は仕事時間である。
今から三十分ほど前に「シャワー浴びてくる」と部屋を出ていった桜使が、上半身裸のまま、なんだったらまだ水滴を残したまま、秋の横に仁王立ちしているのは何故なのか。
「ねえ、風邪ひくよ?」
「ばか! おまえ、ちょっとこれ見ろよ」
そう言って桜使がくるりと背を向ける。そして、首を捻って「ここ」と指し示されたのは、肩胛骨だった。
「身体洗ってて、なんか痛ぇなと思ったら、歯型! ちょっと皮剥けてるし!」
「あー……あー、それね。えーと、すみません」
「地味に痛いんだけど!」
桜使の肩胛骨には、みっつばかり虫さされのような赤い点が出来ていて、それは秋の歯型である。
「なんで噛むの? 無意識?」
「いや、それがわかんねぇんだよなぁ」
「いつもじゃないけど、気付いたら噛んでるよね……まぁ、俺もあとで気付くんだけど……」
基本的には秋はノーマルで、噛み癖とったものもない。ついうっかりキスマークをつけてしまうことはたまにあるが、こうして歯型が残るほど強く噛むのは稀なことだ。
「なんかさ、わかんないんだけど。目の前にサクの背中があると、なんか……」
「なんか、なに? 怖ぇんだけど?」
「いや、だからわかんない」
「なんだよ、それ。せめて理由をつけろ。けど、俺さ考えたんだよ」
にまにま笑いながら、桜使が秋の膝の上に跨がってくる。
「サク、重い」
「肩胛骨って天使の羽がもがれた痕だって言うじゃん」
「おまえの場合は悪魔な」
「はあ? 天使だわ。めっちゃ天使! だって俺、桜の使いよ?」
「まぁ、名前だけは」
「秋はさぁ、俺の肩胛骨に天使の名残を見るのよ。それで、サクが飛んでいっちゃうかもーって思って、無い羽に噛みついてんじゃない?」
桜使は相変わらず人の悪い顔でにまにま笑っている。だから、これが冗談だということは、秋には百も億も承知だったが、何故か妙に納得してしまっていた。
「そうかも」
「は? いやいや、今の冗談よ?」
「わかってるけど、そうかも。うん、そんな気がする」
桜使は間違っても天使ではないし、どちらかといえば黒い尻尾がおしりから生えている悪魔だ。だが、自由奔放な桜使を見ていると、いつか羽が生えてどこかに飛んでいってもおかしくはないと秋は思う。羽の色が、白か黒かは知らないが。
「え……なに。秋、俺がどっか行っちゃうとか思ってんの?」
「深層心理では」
「え、じゃあ、今度からイクとか言わないほうがいい?」
「ふ、なんだよそれ。いや、それは言って。絶対」
「……そっか。そんなこと思ってんだ」
「揺らすな」
膝の上。なにを思ったか桜使は、長い腕で秋を囲うように抱きしめ、椅子の背もたれごとゆうらゆうらと揺らしてくる。
「どこに行くって言うんだよ。どこにも行かねぇし」
ばかだろ。と、耳元低く囁かれ、今度は秋の耳に桜使の歯型が残された。
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