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【ガナッシュ】
・溶かしたチョコレートにたっぷりの生クリームを加えたり、温かい生クリームにチョコレートを溶かし込んで作る口溶けの良いチョコレート。トリュフのセンターなどに使われる。
スマホの画面を見つめ、篠田結は心の奥底から深い深いため息を漏らした。明日はバレンタイン。去年の春からずっと片想いをしている相手に告白する絶好のチャンスだ。いや、これを逃したらもう告白なんて出来ないかもしれないとさえ結は思う。なんといっても相手は男で、テニス部の後輩で、しかもやたらとモテる。つまりかっこいいのだ。それはもう、イケすぎるほどイケている。
まず名前からしてかっこいい。宮近頼人。頼る人と書いて『らいと』。きっとご両親的には、頼れる人に、あるいは頼られる人に、もしくは、誰にでも素直に頼る人にという、色んな意味を込めたに違いない。結にとっての頼人は、頼れる後輩だ。懐が深く穏やか。穏やかといっても、それは波のたたない湖面とかではなく、例えるなら初秋のような暑くも寒くもない、ちょうどいい温度を身に纏っているという感じだ。
身長は百七五センチと、さほど高くはないが、百六八センチの結から見れば十分羨ましいし、手足がすらりと長くスタイルがいい。そして憂いのある瞳は、いつもなにかを面白そうに静かに眺めていて、形の良いくちびるから発せられる言葉はいつもほんのりと意地悪さを滲ませる。それは、相手をバカにしているとかではなく、とても質の良いからかいで、受けた人間の心を優しくいたぶるような、マゾっ気のある人間なら堪らないものだ。
そんな頼人に一目で恋に落ちてから、はや十ヵ月。勘のいい頼人は結の気持ちに気付いていて、今から一週間ほど前にこんなことを言ってきた。
『チョコレートあんまり得意じゃないけど、ガナッシュは好きかなぁ』
そう言った時の頼人は、意地の悪い顔をしていたと結は思う。からかって反応を楽しんでいるだけだとわかってはいるが、どうしてわざわざバレンタインを仄めかすようなことを言うのか。しかもガナッシュってなんだよ。と、冒頭の検索結果に戻る。
トリュフのセンターの意味がわからなかったが、日本ではガナッシュイコール生チョコを指すらしいことだけは、結にもわかった。生クリームとチョコレートとココアパウダー。このみっつがあればガナッシュを作ることが出来る。専門店に行かなくても、近所のスーパーで、なんだったらコンビニでだって手に入る材料だ。
「……なんで手作り前提だよ」
自分の思考にうんざりしながら、結はスマホを枕の横に置き目を閉じた。作らなくても買えばいい。そして明日、それを頼人に渡せば自動的に告白したも同然だ。端からうまくいくなんて欠片も思ってないんだから、当たって砕けたとしてもそんなの今さらだ。そう何度も言い聞かせ、勇気を奮い起こそうとするが、バレンタインにはいい思い出がひとつもなく、ただただ結を憂鬱にさせるばかりだった。
それでも、バレンタインというイベントに乗らなければ頼人に告白など出来そうもなく、結は重たい身体をなんとか起こして、近所のスーパーへと急いだ。
「どうしたの、こんな時間に」
午後九時すぎ。頼人の部屋。頼人の部屋には何度か来たことがあるが、部屋着の頼人を見るのは初めてで、結は耳が熱くなるのを感じていた。なんの変哲もないダークグレーのカットソーに細身のスウェットパンツ。それなのに、やたらかっこよく見えるのは、頼人のスタイルの良さ故か、それとも恋する気持ちが成せる業か、結にはわからなかった。
「……チカは、普通に女の子が好きかもしれないけど、俺は……女の子ダメなんだ」
「ん? うん。前にも聞いたよ」
ベッドを背に二人並んで床に座り、暖房がきいているせいか妙な喉の乾きを覚えながら、結は言葉を絞りだした。
「昔、バレンタインに好きなやつにチョコレートあげたことがあって……ハート型の手作りチョコで……それで、すげえ気持ち悪がられて」
だからバレンタインもチョコレートも好きじゃないと。消え入るように小さな声でつぶやいた結を、頼人がじっと見ている。
「じゃあ、俺にもくれないの?」
「え」
「……割と……いや、けっこう楽しみに明日を待ってたんだけど」
参ったなと、困ったように髪に指を突っ込む頼人の横顔が、心なしか照れているようにも見えて、結は慌ててパーカーのポケットから真っ赤な小箱を取り出した。
「……ガナッシュ。作ってみたんだけど……別に今日はバレンタインじゃないから、深い意味はないっていうか」
溶かして混ぜて固めるという単純なみっつの工程。スーパーで材料を買って、ガナッシュを作ってはみたものの、単純な工程において結が心弾む瞬間は一度もなく、なにかを入れ忘れてしまったような気分だった。
「今日はバレンタインじゃないけど、俺に渡そうと思って作ってくれたんだよね?」
「そうだけど……」
「じゃあ、バレンタインじゃん」
なんの迷いもなく小箱を受け取り、箱の中にただ並べられただけの、飾りもそっ気もない真四角のチョコを頼人の長い指が摘まみあげる。ひとつ、ふたつ、みっつと、ぽいぽい口に放り込んでいく頼人が、結は信じられなかった。ココアパウダーで汚れる指先とくちびる。残るみっつをまた同じように口に放り込み、空っぽの箱の中にはココアパウダーだけが散乱している。
「……なんで」
「なんでって、言ったじゃん。楽しみに待ってたって」
「っ、そうじゃなくて」
「んー……まぁ、今すぐには返事出来ないけど、一ヶ月待っててよ」
ホワイトデー。そんなものは結の人生において存在しないも同然のイベントだった。それを頼人は待っていろと言う。
ガナッシュに夢を乗せることは出来なかったけれど、一ヶ月後のホワイトデーには夢を見てもいいのだろうかと、結はガナッシュに入れ忘れた気持ちを心の中でぎゅっと抱きしめた。
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