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(ど、どうしよう……)
何度、顔を水で濡らしても、水とは違う少し生ぬるい涙がとまってくれない。涙の成分は、ほぼほぼ水と同じなはずなのに、結の目からあふれるそれは、水とは違います! と主張しているかのように水と溶け合ってはくれなかった。
今日は、三月十三日。ホワイトデー前日だ。先月のバレンタイン前日に、結は兼ねてから想いを寄せていた宮近頼人に、手作りのチョコレートを渡し、返事は一ヶ月後と言われていた。
結が泣いているのはフラれたからではない。逆にOKの返事をもらったからでもない。つい先ほど、同じテニス部の女子生徒が部室の前で話していたことが、結の涙の原因だ。
『知ってる? 宮近さぁ、先月のバレンタイン、誰からもチョコ受け取らなかったらしいよ』
『マジで? え、それって好きな子がいるってこと?』
『さあ? わかんないけど、今年は誰からももらわないことにしてるんでって、ばっさばさ断ったらしいよ』
誰からも受け取らない。確かに結が渡したのはバレンタインの前日だから、頼人はバレンタインチョコを誰からも受け取っていないことになる。
『俺に渡そうと思って作ってくれたんだよね? じゃあ、バレンタインじゃん』
頼人はそう言って、結が作ったガナッシュをその場で全部食べてくれた。結としては、それだけで嬉しかったし、返事がもらえるとも思っていなかったから『返事を待てる』期間をくれたことだけでも、頼人に感謝している。
それだけで良かったのだ。自分はゲイだが、頼人は違う。普通に女性を恋愛対象とする頼人が、チョコレートを受け取ってくれて、食べてくれて、返事までくれると言う。それだけでもう、なにもかもが救われたとすら結は思っていたのだ。
それなのに、頼人はなにを思ってか、毎年山のようにもらっていたであろうバレンタインチョコを、今年は誰からも受け取っていないという事実。その理由が自分であるとは、そこまで自意識過剰にはなれないが、思い当たる節はそれしかなく、頼人のその妙な生真面目さに感動と若干の罪悪感を覚え、結は涙がとまらなくなってしまったのだ。
「篠田さん、なにやってんの?」
「っ、チカ! べ、別に……ちょっと汗かいたから」
「まだ部活はじまってないのに? つうか、あんた首までびしょびしょじゃん」
じわり。また涙がにじんできて、結が慌てて蛇口をひねる。
「篠田さん? え、ちょ、ちょっと! 風邪ひく!」
どうしてもとまりそうもない涙に焦れ、結はほとばしる水に頭を突っ込んだ。冷たい水が髪を濡らし、首すじを伝い、結の体温を奪っていくが、どうしても生ぬるい涙だけは水と同化していかない。
「篠田さん、もう……いいから。もういい」
スポーツバッグの中から頼人がタオルを取り出し、結の頭にふわりとかける。その両端をぎゅっと握って、結は顔を隠すようにうつむいた。
「俺のせい?」
「……なにが」
「泣いてるじゃん」
「ねぇよ。泣いて、な、んか……」
「えーもう……困った人だな」
泣いて許されるのは、女の子の特権だと結は思っている。いかに童顔で顔がかわいくても、自分は男なのだ。泣き顔なんかさらしたところで、頼人の気を引けるとも、結は思っていない。
「変なとこ、男らしいよね」
「……変なとこ、って」
「まぁいいや。風邪ひかれたら嫌だから……はい、これ着て」
着ていたジャージを脱いで、頼人が結の肩へとかける。
「袖。通して。早く」
「……」
もそもそと袖を通すと、頼人がぷっと吹き出し「なんだよ」と顔をあげた結の頭から、タオルがはらりと床に落ちた。
「ぶかぶか」
「チカがでかいんだろ!」
「そう? 俺は平均だと思うけど」
「どーせチビだよ!」
落ちたタオルを拾いあげようと身を屈めた頼人の視線の先、蛇口から跳ねたであろう水が小さな水たまりを形成していた。この水たまりの中に涙はどれくらい混ざっているのだろう? と、そう考えて、頼人はまじまじと結の顔を見た。
「な、なんだよ」
結の目が、うるうると潤み、薄い水の膜が張っていく。それをこぼすまいと目を見開く結に、頼人は観念せざるを得なかった。
「篠田さん。俺と付き合おうよ」
ころりと、結の目から涙がこぼれ、水たまりに落ちる前に頼人の手のひらに溶けていった。
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