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彼女にとって、ピアノで音楽を奏でるというのは、きっと呼吸をするのと同じくらいの動作なのだろう。放っておくと一時間でも二時間でも途切れることなくクラシックから映画音楽、あたしのよく聞くJ-popまであらゆる曲をメドレーにして走らせてしまう。
春音のピアノはとにかく音がたくさん重なっている。原曲よりも重なっていたり飾る音が挟まることが多くて、一体あの音はどこから湧いてくるのだ、と。夕闇差し迫る教室で、尋ねたことがあった。
ぽいぽいと無造作に鞄に教科書を詰める春音は、キョトンとした顔で返した。
「ぼくにはああやって聞こえてるけど、梨沙には聞こえないの」
彼女の言っている意味が全く分からなくて、あたしが首を傾げると、春音は「うーん…」と虚空で指を躍らせながら考えた。
そうして、パッと顔を輝かせて「ちょっと来て」と腕を取られて連れていかれたのが、放課後の音楽室だった。
「なにか喋って」
唐突に春音に請われ、あたしは戸惑った。「え、と…そんなこと言われても」
すると、彼女は笑いながらモノトーンの鍵盤の上に長くて綺麗な指を滑らせた。いくつかの音が一つずつ重なって、サイダーのようにシュワっと弾けた。
「梨沙の声」
「え」
「ぼくには、梨沙の声はこんな風に聞こえるの。ねえ、もっと何か喋って」
春音はニコニコと笑いながらあたしを見た。そう言っている間も、彼女の指は鍵盤の上をゆっくりと踊り、まるであたしが次に喋り出すのを待つように、促すように、さらさらとイントロが流れる。
あたしは目の前で起こった、そしてこれから起ころうとしている何かに気圧されてしまって、声を出していいのかも分からなくなっていた。……の、だが。
あたしを待つように彼女が奏でているその曲が、コンビニの入店音だと気づいた瞬間に、一気に脱力してしまいそうになった。こんな綺麗な入店音初めて聞いた…
あたしは何を恐れていたのだ。
「……… 豚こま切れ300グラム、玉ねぎ半個、カレールウ半パック、バター10グラム、」
「ええ~なにそれ、バター? カレー好きなんだよねえ」
あはは、と春音は笑って、パターンを抜け中音から高音へ指を払うように音を駆け上がった。
あたしの『肉と玉ねぎしかない極旨カレー』のレシピと調理法を聞いた彼女は。
音楽室の窓の外は夕陽に燃された空も鎮火して、青い帳が覆い始めていた。白いピアノは夜に青く光り始め、その上を春音の長い指先が何の躊躇いも違和感もなく滑っていく。
夜の青をそのまま凍らせてグラスに入れ、その上からほのかに甘いソーダを注いだような。静かでひんやりとしているけれど、冷たくはなく、一匙の好奇心が混じる。
彼女が奏でたのは、そんな曲だった。
「梨沙の声は綺麗だわ。夜に似てる。けど、ちゃんと星が瞬いてるの」
音を紡ぎ続けながら、春音が喋る。器用なことを。
まさか肉と玉ねぎしか具の無いカレーから、こんな青くて美しい旋律が始まるなんて、一体誰が想像できたというのだ。
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