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「でも一つだけ…」
ぼくの声を『カスタードクリーム』と評した梨沙は、なんと翌週に「だいたいこんな感じ。もっと滑らかで美味しいはずなんだけど」と、自作のカスタードクリームを渡してくれた。カスタードクリームって家で作れるものなんだ、とぼくは素直に驚いた。
あれからぼくは、事あるごとに梨沙に味を聞いて、梨沙も呆れずにぼくに付き合ってくれた。
信号機にコーンスープ、電車の発着音にトロピカルゼリー、壇上の校長先生にいももちというのだから、毎日予想だにしないメニューが豊富だ。
梨沙の見る世界は本当に美味しい。その対象とはまったく関連のない食べ物ばかりだが、彼女の味の描写は細かくて、ぼくはまるでそれを食べている気分になった(まさか校長先生を食べるとは思わなかった!)。
梨沙の世界はすごいな、と語彙力も空しい表現でぼくが伝えると、梨沙は戸惑いながらも笑って、そうして少し寂しそうな顔をするのだ。
「でも、一つだけ」
梨沙は迷うようにゆっくりとぼくに告げた。
「分からないの。
自分の声は、なんの味も思い浮かばないんだよね」
「………」
「ごめんね、変なこと言ったわ。
気にしないでね」
驚いて言葉が出てこなかったぼくに、梨沙はいつもの調子でサクサクとそう言って、「それじゃあまたね」と手を振って分かれ道を行ってしまった。
自分の声の味が分からない。とは。
ぼくは家の冷蔵庫から、梨沙からもらったカスタードクリームを取り出した。もう半分くらい使ってしまっている。料理をするわけでもないぼくは、これをどう使っていいのか分からなくて、もっぱらパンに塗って食べていたが、美味しい以外に評価のしようがない。
彼女が味わったぼくの声だ。こんな声をぼくはしていたのか、と初めて味わう類の感動があった。
スプーンに一掬い。カスタードクリームそのものを味わってみる。
──── まろやかで柔らかい、日向に流れるワルツが聞こえた。
梨沙、寂しそうな顔をしていたな…
あんなに美味しいものに溢れている世界の中で、ただ一つ、自分だけが味わえない。ぼくがそれを教えてあげることもできない。あの世界は梨沙だけにしか感じられない世界だ。
ぼくは。ぼくは───
彼女を想うと悔しくて悲しくて、ぼろりと涙がこぼれた。
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