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「ぼくにはああやって聞こえてるけど、梨沙には聞こえないの」
反射的に返してしまったぼくの言葉に首を傾げる梨沙。夜の青に静かに浸されていく彼女の頬が傾いている。
ああピアノがあれば、ここにピアノがあればいくらでも聞かせるのだけれど。ぼくは無意識に指を動かしていた。
……… そうだ。聞かせればいいのだ。ぼくは、はたと気付いた。
ぼくが梨沙の声をどんな音で聞いているのか、彼女に聞かせることがぼくにはできるのだ。ぼくにはそれしかできないが、彼女が感じるものと同じ味を伝える事はできないが、ぼくにはそれができる。
梨沙が、ぼくの声をカスタードクリームのワルツにしてくれたように。
胸の奥から湧いたこのきらめきを、ぼくは抑えられなかった。
時間はとうに下校時刻を過ぎていて、ぼくも梨沙も家までは一時間以上掛かってしまうけれど。
今しかない、という気持ちが消せなかった。
「ちょっと来て」
梨沙の手を引っ張って、ぼくは夜が始まる廊下を走った。
わくわくしていた。足元から軽快な三拍子が聞こえる。暗い廊下はぜんぜん怖くないけれど、繋いだ手からぼくの鼓動が、テンポを伴って梨沙に伝わってしまうのではないかと思うくらいドキドキしていた。
なにか、楽しいことが始まろうとしている、と思った。
浮かんできたアップテンポなアンダンテ、スウィングの掛かったワルツ、踊り出したくなるイントロが消えない。
つぶさに伝えたい。梨沙へ、あなたの声が静かで美しく、綺羅星を抱く夜空のような音楽をしていることを。
あなたの世界を知らないぼくが、あなたが知らないぼくの世界で見えたあなたの姿。
鼻歌を歌っていたかもしれない。
ぼくはそれくらいの気分で、音楽室の扉を開けたのだ。
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