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 二人は街の中心を流れる小さな川にかかった、朽ちた木橋の上で出会った。  目を見交わしたとき、互いに千年も前から知己であったかのような気がした。そのとき、女の手から書類挟みが滑り落ち、男は散乱した書類を拾ってやった。書類挟みのマークから同じ大学に通う学生だと知り、言葉を交わして学部、学年まで同じだとわかると、すぐに打ちとけ、この日は二人の出会い記念日になった。  二人は貧しかったが、男は女とあてもなく街を歩きまわっているだけで心やすらぐ思いがした。女も格別不満を言わず、いつも影のようにひっそりと男に従っていた。そうして入学したばかりだった二人は4年間を一緒に過ごした。周囲の友人たちは、二人がいずれは結婚するのだろうと考えた。  卒業間際になって、男は橋の袂に女を呼び出し、「今日を最後にしよう」と言った。  女は驚いて、しばらくは無言で身を硬くしていたが、やがて声をあげずに、さめざめと涙を流し、「どうして・・・」とようやくかすれた声を絞り出した。  「もう君を愛していない」  男は冷然と言い放った。  その後二人が会うことはなかった。  男は何人もの女に出会い、別れた。満足のいく女にはなかなか出会えないと思い、自分の勝手には気づかなかった。  そして、10年、20年の月日が流れた。男はとっくの昔に橋の女のことなど忘れたと思っていたが、女に告げた自分の言葉が、歳月を経てもなお胸の底に棘のように刺さって疼くのを感じた。  男は幾人もの女とためらいもなくまじわり、未練もなく別れて、後悔一つしなかったが、触れ合うこともなく別れた橋の女は、ときおり振り返るとまだ自分のそばにひっそりとつき従っているのではないか、と感じることがあった。  もう愛していない、という言葉は嘘だった。男はその嘘を引き受けることが自分の女への愛情だと一途に考えていた。  あるとき、年上の女から、「バカねぇ、女がほんとに惚れたら、どんなに苦労したって自分も何とかしようって思うわよ」と言われて、男は自分に勇気が欠けていただけだと悟った。  歳月が雪のように過去を覆っていった。かつての友人たちは、それぞれ家庭を持ち、子を育て、男子一生の仕事をおえて、老後を迎えていた。家族を持たず、そのときどきに女と交わり、そのときどきに糊口をしのぐ仕事を転々としてきた男の手に残されたものは何もなく、ただ身にしみついた孤独で空虚な自由があるばかりだった。  その自由も、次第に身体の不自由に冒されてままならぬようになった。  死期を悟ったとき、ふと、死ぬ前に、若い頃に過ごしたあの街へいってみたいと思った。  街へ入ると、すぐに後悔した。たそがれていく街の様子は、まるで昔の面影をとどめてはいなかった。街歩きを楽しんだ迷路のような道は跡形もなく縦横に広く整備され、かつての家並みはすっかり取り壊されてビルが林立していた。  女と初めて出会った橋のあたりは、石畳に眩いばかりのネオンが反射する歓楽街に変わっていた。川は縁が広げられて遊歩道のように整えられ、木橋は影も形もなかったが、かわりに倍ほどの幅の大きなコンクリートの橋がかかっていた。  男は杖を欄干に立てかけて、七色のネオンを映す水面を眺めていた。それからどれくらい時間がたったか、そろそろ行こうとして振り向くと、目の前に女が立っていた。     やっと来てくれたのね。  女はこころもち頬笑んでそう言った。  その顔も姿形も若いころのままであるのを、男は不思議に思った。     恨んでいないのか。  男が言うと、女は笑い、       私は幸せだったわ。いい夫と子供にめぐまれて。  そしてちょっと躊躇するように間をおいて、     だれと一緒になっても、私きっとうまくやっていけたと思うわ。  そう言う女の目は謎めいた光を帯びてみえた。    (でも、きっと私では駄目だったんだよ。)  男は内心で言葉を発したが、声にはならなかった。     ずっと恨んでいると思っていたんだ。     わかっていたわ。だからここで待っていたのよ。     もう千年も待ったわ。  にっこり笑ったと思った次の瞬間、女は細かな霧のように淡い影になり、目の前から消えた。  そのときはじめて、男はきょうが二人の「記念日」であることに気づいた。                               (了)    
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