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15. 好きになったのは
八木ちゃん俺ね、基本的に、自分の得にならないことは一切したくない人間なんだ。だから八木に優しくしてたのも全部、自分のためだよ。八木に好きになってほしかったから。それ以外ないんだよ。ねえ、だから。
早口に捲し立てて、掴んだ手首をより強く握った。
至近距離で視線がぶつかる。彼女が思いの外小さかったのだということに、初めて気づいた。俺もあまり背が高いほうではないし、八木もクラスの女子の中で見るときには背が低いイメージはなかったけれど、間近では、しっかり見下ろさなければ視線が合わないくらいに身長差はあったらしい。そんなことすら、今まで知らなかった。
え、と八木の唇から零れた小さな声も、はっきり耳に届いた。こちらを見つめる八木の目はひたすら当惑していて、なんだかもどかしくなって繰り返す。
「好きなんだよ」
八木は、俺の言葉を頭の中で噛み砕いて、よく理解しようとしているようだった。ひどく単純な言葉のはずなのに、唐突すぎて追いつけていないのか。黙ったまま俺の顔を凝視している八木へ、さらに重ねてみた。
「俺は、八木が好きだったの、ずっと」
その細い腕は、一周しても指がゆうに余る。長い時間寒い準備室にいたせいか、元々体温が低いのかはわからないけれど、手のひらに伝わる感触は冷たい。どちらも初めて触れる感触で、息が詰まりそうだった。
菅原は知っているのだろうか、なんて、愚にもつかないことを頭の隅で考える。この細さも冷たさも。菅原は触れたことがあるのだろうか。
疑問は、考える間もないほどすぐに答えに至って、ため息をつく。知らず知らずのうちに握る手にも力がこもってしまったらしく、八木がわずかに顔を歪めた。そんな彼女の表情に満足している俺は変態かもしれないなあ、と奇妙に冷めた頭の片隅で思いながら、口を開く。
「俺さ、本当は、八木と菅原がうまくいってほしいなんて、全然思ってなかったんだよ」
八木が傷つけばいい。そう思って、できるだけ冷たく、突き放すような口調で言葉を紡いだ。
「ていうか、うまくいくはずない、とも思ってたけど。だから協力したんだよ。八木と菅原が付き合うように。一回付き合ってみればさ、八木もよくわかるだろうと思って。菅原がどういうやつかって」
よくわかったでしょ、にっこり笑って問いかける。きっと、ひどくぎこちない、無理矢理な笑顔になっていただろうけれど。
「菅原が八木をいっぱい傷つけて、八木が散々な思いして、二人が悲惨な別れ方するのを待ってたの。そうやって八木が菅原のこと嫌いになって、次は俺のところに来るようにって、いっつもそんなこと考えながら、俺は八木に優しくしてたんだよ。ずうっと」
それだけだった。だけど八木は、いくら優しくしたって一向に返してくれる気配はないから。それならもう、優しくする意味なんてないでしょう。
「だから」
言いながら、さらに力を込めて掴んだ手首を締め付ければ、八木は、いた、と小さく声を上げた。それでも力を緩めはしなかった。
八木のつらそうな表情なら、ここ最近だけで何度も目にした。泣き顔だって見たことはある。だけどそれらは全て、菅原が作ったものだった。八木が苦しんでいるのは、いつも、菅原のことだった。
それはもう、見飽きた。
「俺、今喜んでるよ。ちゃんと二人が別れてくれて。結局、最初の予想通りの展開になっただけだけど」
たまには俺のせいで苦しめばいい。俺のせいで傷ついて、悩んで、泣いてくれればもっといいのに。
そんな真っ暗でどす黒い願望が突き上げた。きっと今になって生まれた願望ではなくて、ずっと前から心の底に横たわっていたのだと思う。菅原のことで泣く八木を見るたびに、膨らんでいっていた。
放心したように俺の顔を見つめていた八木も、ようやく状況を理解したようだった。顔を歪めたのは、今度は痛みのためではなかったはずだ。
目が伏せられる。唇が微かに震えているのが、間近に見えた。そのまま、しばらく八木は視線を上げなかった。強張った表情で床を睨み、黙りこくっていた。
それは見慣れた八木の顔だった。だけど俺にとっては、これまでとは決定的に違う。今、八木がこんな表情をしているのは、菅原ではなくて俺のせいだ。それだけで、俺はどうしようもなく満足する、はずだった。
「……し、みずくん」
八木の口から、震える小さな声が零れるまで、どれくらい時間が経ったのかはよくわからなかった。ずいぶんと長い時間待っていたような気も、一瞬だったような気もした。
「あの、私、ね」
精一杯に声を押し出すように、たどたどしく八木が続ける。
渇望した光景のはずなのに、八木が顔を引きつらせて俯く姿を実際に眺めていても、そんなに満足もしなかった。楽しいわけでもなかった。そう気づくと同時に、こみ上げた真っ黒な感情はどこかへ押し流され、代わって、じわりと空虚な冷たさが広がる。
「調理実習で、ものすごい、失敗しちゃったことが、あって」
突然出てきた場違いな言葉に、思わずぽかんとした。
「五月の頭の頃で」八木は構うことなく、言葉を続けていく。
「いくつかの班に分かれて、麻婆豆腐を作ることになって……えっと、そのとき私、味付けの担当だったんだけど、味付け失敗しちゃって、すっごく薄い味になっちゃって、その」
いきなり何の話をし出したのか。困惑して、俺は相槌すら打てずにいたが、八木は気にした様子もなく訥々と喋り続けていた。
「とにかく、すごく不味くなっちゃったんだ、私たちの班の麻婆豆腐。それで、食べるとき、みんな当然不味い不味いって言ってて……でも、菅原くんが」
その名前に反応して手に力が入ってしまったらしい。八木は、びくりとしてそこで急に言葉を切った。しかし、すぐに意を決したように息を吐くと、菅原くんが、と、今度は幾分はっきりした調子で繰り返した。
「自分は薄味が好きだから、完成直前に水足しちゃったんだ、って、言ったの。それで薄くなったんだって。でも、菅原くんはそんなことしてないんだよ。私が味付けの担当だったから、ずっと鍋の側にいたし。だから私、びっくりして、すごく嬉しくて……でもね、それも嬉しかったけど、一番は」
そこで八木は再び言葉を切ると、すう、と短く息を吸って、続けた。
「俺はこの味好きだな、って、言ってくれたことで」
八木の話を聴くうちに、記憶がだんだんと手繰り寄せられていった。
調理実習。たしかに五月の頭にあった。麻婆豆腐を作ったことも覚えている。そしてその麻婆豆腐は、ほとんど味がしなくて、おそろしく不味かったのだ。だけどそれが八木の責任だったなんて、そんな記憶はない。菅原がふざけたことを言って、同じ班の男子にやたら責められていたのはなんとなく記憶にあるけれど。
そこまで考えたところで、俺は急に、八木の言いたいことを察した気がした。
「私、そのときから、ずっと」
八木はたびたび止まって呼吸を挟みながらも、ゆっくりと言葉を続ける。
「どうしようもなく、好きで、釣り合わないってわかってても、やっぱり」
思えば、八木の口からその言葉を聞くのは初めてだった。目を伏せようとしたところで、ふいに八木が顔を上げて、視線がぶつかる。驚くほど真っ直ぐに見つめられ、そのまま視線が動かせなくなってしまった。
「好き、なんだ。今でも」
五月の頭から、ずっと、今まで。変わらず想い続けたきっかけは、そんな些細なものだったのか。
それくらいの優しさなら、俺だって与えられた。菅原と同じように、あのとき、八木に気づけていたなら。
俺は黙って、八木の手首から手を離した。目を伏せる。
――ああ、そうだ。だけど俺は気づけなかった。
八木の話から察するに、調理実習のとき、俺も八木と同じ班にいたはずだ。でも、なにも気づくことはなかった。あの頃は、八木のことなんて気に掛けてもいなかった。小学校の頃から一緒にいたというのに、彼女が目に留まるようになったのは、本当に最近のことだったのだ。菅原なんかより、ずっと前から、俺は彼女の側にいたのに。
最初に気づいたのは、八木の視線の先を知ったときだった。八木が菅原のことを想っているのだと知ったとき、そしてその想いが、決して軽いものではなく、ひどく一途なものであることも、俺は最初から知っていた。
だから、好きになったのだ。
菅原はたしかに女の子にだらしがないところはあったし、クラスの女子からの不人気も仕方ないと言えば仕方ないことだったけれど、それにしたってうちのクラスでの菅原の評判は悲惨で、俺は菅原のいいところだってたくさん知っていたから。だから、八木がそんな菅原のいいところを見つけてくれて、好きになってくれたことが、ただ純粋に嬉しかったのだ。
それがきっかけだったのだから。
笑ってしまう。どうしようもないほど、苦い笑いだった。俺が好きになったのは、菅原のことが好きな八木だった。
初めから、愚かな恋だったのだ。
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