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プロローグ
黒い蝶が目の前を飛んでいる。ふわりふわりと不安定に揺れながら、幻の中にぼくを誘っていく。
――あれは小学校の時だった。午前は晴れていたのに、午後は雨が降った日。天気予報になかった急な雨だったけど、残念そうな声を上げる子と、嬉しそうにはしゃぐ子がいる。残念そうな方の理由は言わずもがな。はしゃいでいる子達は、お母さんが傘を持って迎えに来てくれるからだった。
お母さんの当てがある子達は、今か今かと雨よけぎりぎりのところで待ち構えている。ぼくは横目にそわそわ嬉しそうな彼らを見てため息を吐き、慣れた手つきでランドセルの中から折りたたみ傘を取り出した。
ぼくのお母さんは忙しいから、平日の午後になんてまず来られなかった。ぼくの家では、途中で転んでずぶ濡れになって帰ってもすぐに助けてくれる人はいない。
ちっとも寂しくなかったよって言ったら、さすがに嘘になるかな。
でも、平気。だってぼくはその分、同い年の子より料理だとか洗濯だとか掃除だとか、いろいろなことが得意だったし、割烹着にアイロンだってかけられた。
門限やいくつかの家の約束事さえ守れば、大分自由に放課後遊ぶことができた。
それって結構お得な事だったと思う。
まあともかく、その日は確かあいにくの天気に加えて宿題があったし、さっさと帰ろうと思ったんだ。
折りたたみ傘の骨をポキポキ鳴らしながら順番に組み立てて、ゆっくり広げる。
ちらっと正面の校門に見張りの先生がいないことを確認してから、そっと校舎の方、昇降口じゃなくて校庭の方に向かって歩いていく。
ぼくの家に行くのには、校庭にある裏門からのルートの方が近道だったんだ。
濡れたスニーカーが足を踏む度にぴしゃぴしゃ音を立てる。結構お気に入りの奴だったのに失敗したな、今日風呂場で乾かそうか――。
そんな風に考えていたぼくは、ふと足を止めた。
校庭の隅にある柳の木の下に、誰かがぽつんと立っている。
広げた傘は、何て言ったっけ? 時代劇とか、古風な人とかが使うような――そう、蛇腹の傘。それもなんだかぼろぼろの。
もう少しよく見てみれば、その子はなんと和服――時代遅れな着物を着ていた。
普通の時のぼくだったら、気にはなるけど、なんだか不気味だから近づかなかったはず。
そう、あの時は雨が降っていて、薄暗くて。
ぼくもあの子も一人きり。
傘を差しても雨に濡れ。
だからかな、なんだか放っておけない気分になっちゃって。
くるりと振り返ったあの子は、どんな顔をしていたっけ?
雨中。しだれ柳の下。傘の内。曖昧な時刻、放課後の逢魔が時。
切りそろえられた綺麗なおかっぱ頭、濡れ羽色のつややかな髪、緋色の着物に白い帯。
そういうことは覚えているのに、肝心の顔の輪郭がぼやけて思い出せない。確かに話したはずの会話の内容も。
ひらり、ひらりと蝶が舞う。漆黒の蝶はぼくの前を通り過ぎて、空の中に吸い込まれていく。
でもね、あの子ほど綺麗な女の子を、ぼくは後にも先にも見なかったと思う。彼女は、この世の物ではないかと思うほどに――。
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