第1章  春分の西護

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「ほらよ」  大きな丼が出され、中にはくず野菜がたっぷり入ったあんかけ麺が入っていた。庶民の一般的な昼食だ。 「おお、うまそう」  湯気の立つ熱々の麺を遠慮なくかき混ぜると同時に、それまで沈黙していた老人が駒を一つ動かした。  主人がそれを見て、むううと眉をしかめる。どうやら不利な一手に進まれたらしい。  はふはふと熱い麺をすすりながら横目で勝負を見ていると、食べ終わるまでに進んだのは店の主人の一手だけだった。  そりゃ時間がいくらあっても足りないはずだと萩明は横目でちらりと将棋盤を伺う。何がそんなに楽しいものか、将棋がそれほど好きでない萩明には理解できない。  あっという間に麺を食べ終わり湯冷ましを飲んで、鍵をもらうと二階へ上がった。  寝台と床頭台が置いてあるだけの狭い部屋だが、本当に寝るだけなので屋根と布団さえあれば文句はない。  まだ夕方にも早い時刻だが、鍵を掛け、背負い袋に入れた荷物を抱きこむと布団をかぶり、萩明はそのまま眠りについた。  目を覚ましたのは日が暮れて間もない頃合いだった。  起き出して洗顔をすませて袍を羽織ると夕闇に包まれた町へ出た。提灯や松明に灯がともった通りは昼間よりも賑やかになっていた。  夜は冷えるが明日の市を控えて、どの食堂も宿も呼びこみが表に立っている。  ふらふらと通りを歩いていた萩明は一軒の食堂へ入った。安くてうまい家庭料理を出す店だ。六年前に初めて来て以来、ここを贔屓にしている。 「おう、萩明、久しぶりだな」  別の街でも顔を合わせたことのある同業者が声を掛けてきた。春分だから、安寧門をくぐって帰って来た者も多いはずだ。 「よう、斉鼓(せいこ)、景気はどうだ?」 「悪くねえな。最近はなんだか悪鬼や妖魔が多いからな。今日、荒海から戻ったばかりだ」  斉鼓は怪我をしていて腕には布が巻いてあるが、手には酒杯を持っている。荒海から無事に帰って来たのだから、多少の怪我など気にならないのだ。  荒海では酔っていられないので、酒を飲むのは久しぶりだろう。  萩明も白酒(ばいじゅう)という度の強い酒を頼み、羊の串肉と肝臓の炒めをつまみにのんびり飲む。一仕事終えたあとのほっとした感じが酒とともに体を巡った。 「荒海はどうだった?」 「変わりはねえな。今回は操獣師を護衛して行ったんだが、そいつがどうしても孟極(もうきょく)を捕まえるってんで、なかなか手こずった」  孟極は白い豹のような大型の妖獣だ。攻撃力が高く、賢くてよく言うことをきくので益獣に欲しがる者が多い。操獣師はきっと誰かに孟極を依頼されたのだろう。
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