第1章  春分の西護

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 市(いち)は賑やかだった。  みんながみんな妖魔や妖獣を買いに来るわけでもないから、庶民が欲しがるような日用品からめずらしい香辛料や果物、衣装や飾り物や絹や楽器や書物や呪具に至るまで、あらゆるものが並んでいて、不思議な異国の香りも漂う。 「哥(にい)さん、羊の串焼きはどうだ? 焼きたてだよ」 「一本もらおう」  若者が竹串に刺した大ぶりな肉を頬張りながら、露店を眺めて歩いている。 「そこの姑娘(くーにゃん)、砂漠の瓜はどうだい? 甘い蜜瓜は珍しいだろう」 「おいしい八宝茶はいかが? 甘くて疲れが取れて美容にもいいのよ」 「ほらほら、見てごらん。越国特産の翡翠の腕輪だよ、美しいだろう。こんなきれいな翠はなかなかないぞ」 「それよりこの簪をごらんよ。細工が見事だろう」  金銀細工の簪や螺鈿が美しい小物入れなどの露店の前には、若い娘たちがたくさん集まっている。そんな品々を眺めているのは従者を連れたそれなりに裕福な家の娘たちで、下町の娘たちは羨ましげな顔をして横目で通り過ぎていく。  郭襦(かくじゅ)の手織り絨毯、新疆(しんきょう)の半月刀、遠い海のある国から運ばれた珊瑚細工や真珠の装飾品など、あちこちから集まった工芸品は見て回るだけでも楽しい。  それらを売り込もうと行商人たちが声を張りあげる。  通りには肉を炙る香ばしい匂いがたちのぼり、炒麺や蒸し饅頭(まんとう)、串焼肉や果物や飴細工から団子汁までたくさんの露店が並び、大人から子供まで多くの人々が行きかっていた。  ただし掏りや強盗や人攫いもいるので要注意だ。  萩明も人混みに紛れてゆっくり市を見て回った。欲しいものは特にないが、この喧噪は嫌いじゃなかった。なんとなく心が浮き立って懐かしいような気持ちになる。  湘国は交易が盛んで、異国の商人たちの姿も多い。彼らは頭に布を巻いていて、彫が深い顔立ちでくすんだ青や灰色の目をしている。湘では黒髪黒目が一般的なので、不思議な色だといつも思う。 「哥さん、一つ味見はどうだい?」  茶色に煮しめた大きな豆のような物を勧められた。指先につまむとねとっと蜜がつく。 「これは何だ?」 「棗(なつめ)の甘煮だよ。砂漠になる木の実で栄養価が高くて滋養にいい」 こっくりした甘さが気に入ったので、小杓一杯分を買う。けっこう甘いものも好きなのだ。  隣にいた髭を生やした男が口を出した。 「うちの干葡萄はどうだ? 軽くて甘くて保存もきくぞ」 「いやいやこっちの羊の干し肉がお勧めだよ。哥さん、護衛だろ? これからの旅に必要だよ」  行商人たちが声を掛ける中、気の向くままにいくつか買い物をしたあと、少し息を整えた。
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