第1章  春分の西護

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 荒海に行く予定がない今は欲しいと思わないが、相性の良さげなものがいれば買うのも悪くない。柔和そうな目をした駮を眺めていたら後ろから太い声がした。 「おい、あんた、そいつを買わないんなら俺が交渉していいかい?」  顔に傷のある男が駮を値踏みしていた。 「ああ、すまん。珍しいから見ていただけだ」  萩明は声を掛けてきた男に場所を譲った。早速、操獣師と二人で値段交渉が始まった。あちこちでこうした交渉が行われている。    益獣が欲しかったわけではないが、西護の市でしかこれほどの数を見ることはないから、萩明は軽く一周してみた。  益獣だけでなく、ついでに妖魔の売り場にも足を延ばした。  妖魔市は益獣の売り場とはまた様相が変わる。囲いはあるが入るのに許可はいらないから、珍しさにつられて来た庶民も多い。  益獣市よりも檻が小さくなり、手の平に乗る大きさからせいぜい両手で抱えられる大きさだ。中に入っているのは鼠や蛇や犬や猿に似た生き物たちだ。   そうは言っても妖魔だから、鼠や猿のようなのに翼がついていたり犬に角があったりと明らかに普通の動物とは形が違う。  売っているのも屈強な操獣師とは限らず、巫術師だったり道士だったりだ。 「化(か)蛇(だ)はある?」  耳に聞こえた台詞に萩明は体を緊張させた。 「化蛇だって? お嬢ちゃん、そんな物騒なものはうちでは扱わねえよ」  後方から聞こえた声に萩明はさりげなく振り向いた。  化蛇とは犬のような体に翼を持った大型の蛇だ。荒海の奥地に棲んでおり、滅多に捕えることはできない。妖魔というより妖獣というほうがいいほどの大きさで、特別な用途がある。  化蛇を欲しがるなんて何者だろう。  横目で確認すると質問したのはまだ若い娘でまた驚く。  十七、八歳にはなるだろうか、成人しているかどうかというところだ。声は低めで涼しげな目元が印象的だ。ひどく整った顔立ちだが、着ている物は質素で飾り気がない。  生地や装飾によって衣裳の値段は大きく違うから、身なりを見れば大体の素性はわかる。裕福な者ほど高級な生地でゆったり仕立てた衣装を着ているのだ。  娘が着ているのは綿布の仕立ての女物だが、色も地味で男物のように筒状に袖を短くしており、それだけなら庶民の貧しい者もそうだが、なんとなくそぐわない感じがする。  裕福な家の娘ならこんなところを一人でうろつくはずはないし、普通の者なら妖魔に興味など持たないだろう。どういう身分かわかり辛い娘だった。誰かの遣いで来たというところだろうか。
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