第1章  春分の西護

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 その娘をもう一度見かけたのは、その日の夕刻だった。  大通りから一本入った通りは馬車の通行が禁じられているため屋台が路上に並び、仕事を終えた庶民の憩いの場になっている。  萩明は魏領と火鍋を食べて、通りを歩いていた。すると前方で何か騒ぎが起きた。切れ切れに怒鳴り声が聞こえる。どうやら酔った誰かが誰かに絡んでいるらしい。 「触るなと言ったんだ。手を離せ」 「なんだ、小娘、その口の利き方は」 「どんな口を利こうと私の勝手だ。お前こそ汚い手で私に触るな」  そう言って、赤ら顔の男の手を振り払ったのは、昼間の妖魔市で見かけた娘だった。  自分より頭一つ分は大きく、体格差は言うに及ばない相手に鋭い口調で言ってのける。   男は衛士(えじ)の格好をしていた。衛士と言えば街の護衛として四門を警護する役割で、腕っぷしが強く血気盛んな若者が多い。街を護っていると言う矜持もあり、若者の憧れの職の一つだ。   その衛士と向かい合って、小柄な娘が言い合っているのだ。気が強そうな目元だと昼間も思ったが、怒った表情になるとますます気の強さが現れて、それが男を煽ったらしい。 「なんだと、それが衛士に対する物言いか?」 「衛士だろうが何だろうが、見知らぬ相手に突然、酒の相手をしろなんて言う輩にロクな者はいないな」 「お前が物欲しそうな目で見ていたから声を掛けてやったんだ」  周囲には人だかりができていて、男は引っ込みがつかなくなっていた。 「衛士から声を掛けてもらえるなんて、お前のような貧乏娘には名誉なことだ。ありがたく思え、小娘が」  尊大な態度の男を娘は凍りつきそうな目でじろりと見る。小娘どころか男のようにも見えるくらいの迫力があった。 「物欲しそうなのはお前のほうだろう。女が欲しいならそういう店に行って買え。お前のような下品な男でも金を出せば相手をしてくれる女もいるだろう」   まだ成人したかどうかという年頃の娘が口にするとは思えない内容だ。もし娘が怯えて泣き出すようなら助けが入っただろうが、怖がるそぶりがないせいで周囲は面白がって成行きを見守っている。 「何をこの生意気な小娘が!」   男はとうとう我慢できなくなり、娘に拳を振り上げた。  酔っていてもそこは衛士で、殴られれば娘は吹っ飛ぶだろう。娘が打ち据えられるのを予想して、見物人から悲鳴が上がった。  ところが一瞬の後、どうっと音を立てて倒れたのは衛士のほうだった。  見ていた者たちもあっけに取られて、何が起きたのか理解できない。それほどの早業だったのだ。  男は倒れただけではなく、道に転がりぴくりとも動かない。静まりかえった路上で、娘は表情も変えずちらりとそれを見やって足を踏み出した。 「どけ」   言われた男女がひいっと声にならない悲鳴を上げて道を空ける。娘はそれが当然とばかりに悠々とした足取りで去っていく。
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