僕だけのために歌って

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僕だけのために歌って

すっかり顔色をなくしているな。 音楽室には僕と彼女しかいない。ひとつ年下の後輩は、壁に飾られたベートーベンやバッハに睨まれたように怯えきっている。 「先輩、無理ですよう。私にソロパートなんて……」 「観念しなよ。本番は明日なんだから」 彼女は窓にもたれかかってグラウンドを見つめている。野球部員の掛け声が三階まで聞こえてくる。30分くらい前までは、この部屋でもあの声に負けないくらい我が合唱部が歌いあげていた。 部活が終わっても彼女は帰ろうとしなかった。僕は帰り支度がもたついているように見せかけて、皆が帰るのを見送った。 彼女の隣に立ち、顔を見やる。 伏せられたまつ毛が思いの外長くて影をつくっていた。てっぺんをお団子でまとめているのだけれど、不器用でうまくできないらしくおくれ毛が残っている。 「おまじない、してやろうか。どんなにあがってもきれいな歌声が出せるおまじない」 「はい、ぜひ!!」 彼女の顔が華やぐ。こちらを向いた瞬間に腕を軽く引っ張った。彼女は簡単に僕の腕のなかに飛び込んだ。左手で彼女の前髪をあげた。 開けっ放しの窓から春風が入りこんできた。カーテンがはためく。彼女は不思議そうな顔で僕を見つめていた。 ごめんね。 心のなかで僕はつぶやき、彼女の額に唇を押しあてた。おしゃれに音を立ててやさしく、と思っていたけれど、実際は唇がつぶれるくらい強くくっつけってしまった。 顔を離さそうとするより先に、突き飛ばされた。 「な、何するんですか!?」 「何って、おまじないだよ。いまキスしたところから声を出すようにして歌うんだ。おでこの上に歌う妖精が立っているようなイメージだよ」 「いっていることはまともだけど、することが……。さすが校内一のタラシは違いますね」 「それ、いわないでくれるかな……もし僕が本当のタラシなら、これだけで終わらせないって」 愛想良く振舞っていたのがいけないのだろうか。僕は女子受けがやたらといい。 はじめは本命をうまく隠せていいと思ったけれど、このようにアプローチしても本気と受け取られないから困る。 いまだって誰かにくちづけをするなんて初めてのことだった。平静を装っているが、さっきから心臓の音がうるさい。 彼女にふれた唇が感電したように痺れている。いますぐ舌なめずりして口内で甘ったるさを味わいたい。 ふくれっつらでうつむく彼女の手を取った。 「まだ怒っている?」 「……少し」 「それじゃあ、今度は具体的にアドバイスするよ。歌うときは、指揮をする僕を見て。観客も仲間も忘れるんだ。僕のためだけに歌ってほしい」 本当はアドバイスではない。僕のわがままだ。 まだ、きみが入学して数カ月しか経っていない。 走ることも、ボールを投げることも、絵を描くことも苦手だときみはいっていた。音楽の授業でしか褒められたことがないのだと打ち明けてくれた。僕はその教師に感謝したい。 世界中の人が等しく才能の種をもらえるのなら、きみは間違いなく歌声の素晴らしさを受け取ったのだろう。 「それで……うまくいきますかね……」 「できる、できるよ。きみの声を僕はずっと聴いていたからね」 きみがカナリアなら鳥籠に閉じ込めていただろう。朝目覚めるときも、眠りにつくときも、永遠に僕にだけ歌ってほしかった。 きみはまだ自分の美しさを知らない。気づく前に、僕だけのものにしたかった。明日、きみは世界に羽ばたく。きみの魅力が世界に知られる。 もう僕だけのきみではいられない。 きみが輝くことを僕は望んでいるのに、さみしくてならない。
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