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僕の大好きな声が聴こえる
太陽が沈み始める頃、僕は駅にいた。「お腹を壊した」と嘘をついて、部員たちが乗る列車を見送った。きっと、帰りの列車で彼女が皆に褒められるだろう。その様子を見たくなかったからだ。
けれど、ホームに行くと彼女がベンチに座っていた。
「なんでいるの?」
「先輩、いっしょに帰りましょう!」
僕は何も言わずに彼女の隣に座った。ここは田舎町だから次の列車まで一時間くらいある。空には絵に描いたようなはっきりした色合いの夕焼けが広がっている。
「これ、先生が買ってくれたんですよ」
彼女は紅茶のペットボトルを飲んでいる。陽の光に照らされて、唇が艶めいていて……。
僕は彼女の腕を掴んだ。
「何、ん、ふ……んん」
彼女の唇を奪っていた。ペットボトルが転がって、僕の靴に当たり、靴下に紅茶が染み込んできた。
「せんぱ、い……なんで、どうして……」
離れようとする彼女を抱きしめた。彼女の声に驚きと悲しみが含んでいるのが、目を閉じてもわかる。
「きみをソロパートに推薦したのは僕なんだ」
「え……」
彼女が怯えないように、できるだけやさしく抱く。服越しでもきっと僕の熱が届いているだろう。
「きみの声は、ほかの誰よりも強い。でも、それでいてしなやかなんだ。たくさんの声を聴くのにきみの歌声だけが、僕の奥底まで響くんだよ。だから、だから……きみがたったひとりで歌えば、どんな旋律が生まれるかを聴きたかった」
頭のなかにきみの歌声が響く。いままで僕が紡いだどの歌よりもやさしい響きだった。
「あんなにきれいな歌になるんだね。夢のようなひとときだったよ。でもあれは僕だけの時間じゃないんだ」
僕のためにだけ歌って。
心からそう願っていた。けれど、歌はその場にいる皆のためにある。そのことは僕自身がよくわかっていた。
「これから、僕は嫉妬するだろうな。会場にいる人全員に」
彼女が僕の背中に腕を回してきた。
「私だって嫉妬します。歌っている間、先輩と目が合わないかなって思っているんですよ」
「僕を見てそんなこと考えていたのか」
「だから、あんなキスはいやです」
両手で彼女の頬を包む。彼女のおくれ毛が僕の手にかかった。
「それじゃあ、改めて」
互いに唇をかさねた。恋人としての初めてのキス。一度では物足りなくて数回キスを繰り返した。さっきはわからなかった紅茶の甘さを感じた。
「好きだよ。ねえ、きみもいってくれないか。早く」
彼女がささやく。僕を明るい方へ導いてくれる大好きな声が聴こえる。
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