退屈な日々

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退屈な日々

黄身と白身が器用に混じった目玉焼きに、広子はため息をついた。 朝から出鼻をくじかれた気分だ。 卵を割って焼くだけなのに、どうしたらこうなるのだろう。 主婦歴二十五年の母の料理は何年たっても上達しない。 とはいえ、作ってもらっている以上、文句は言えない。 目玉焼きと呼ぶべきか迷う平たい卵を茶碗にのせて醤油をかけ、 箸で切るように混ぜてご飯ごと掻き込む。 化粧にかける時間は長くても十分、髪も適当にひっつめ髪、 シュシュをつけて終わりのお手軽スタイルだ。 これでも入社一年目は頑張っていた。 今では、外見に気を遣う暇があるなら、一分でも長く眠りたいと思う。 リビングに戻ると、丁度、朝の星占いが流れていた。 内容なんかどうせ適当に決まっている。 そう思いつつも、自分の星座を確認するのがちょっとした習慣に なっている。ちなみに広子はふたご座で今日の運勢は十位だ。 「油断すると失敗しそう。気を引き締めてトラブルを防ごう。  ラッキーパーソンは髪の長い子」 パッとしない。 通勤バッグに弁当や水筒を詰めながら、ため息を零す。 「溜息なんてついて、朝から鬱陶しいわね。  こっちまで疲れるわ。あーもう」 忙しなく台所と応接間を往復していた母が、刺々しい声をあげる。 それは疲れるだろうと、広子は心の中で突っ込みを入れた。 先程から母の行動を見ていたが、 一度目は父の弁当箱を持って応接間に行き、 次に箸箱を運んで、一旦台所に戻り、コンロの火を消した。 それから応接間にソースを取りに戻り、台所で小さな容器に ソースを詰めて、応接間に置いてある空の弁当箱の横に置いた。 つまり、応接間に弁当箱と箸箱を運んで台所の火を消し、 ソースを小さな容器につめるためだけに三往復も!行き来したのだ。 コンロの火を消してから弁当や箸箱を運び、応接間でソースを 詰めれば一往復で済んだだろうに、いつもならがら無駄な動きが多い。 そもそも応接間と台所の間にあるリビングの机を片付けて、 弁当のおかずを並べられるスペースを確保すれば、 往復距離は片道十一歩から四歩に減らせる。 「ちょっとぉ」 母が突然、立ち止まる。何事かと振り返ると、 リビングの壁のカレンダーを恨めしそうに睨んでいた。 「お父さん、今日はお昼いらないって書いてあるじゃない。  昨日までカレンダーにそんなこと書いてなかったのに。  昨日の夜書いたんだわ。なんで先に言わないのよ。  もう作ったのに。あー疲れた。朝からほんとに疲れた」 「うるさいなぁ」 気の毒だとは思いつつ、どこが疲れているのだと聞きたくなる ハイテンションな愚痴に、つい反応してしまう。 「うるさいじゃないでしょう。あんたもお父さんも本当に勝手なんだから。  私がどれだけ大変な思いしてるか、分かってるの!」 案の定、更にヒステリックな声が返ってきて顔を顰める。 これ以上は何も言うまいと、口を噤んだが時すでに遅し。 母はマシンガンのように喋り始めた。 「あぁ、もうこんな時間。ぼけっとしてないで、早く仕事に行きなさい。 電車、遅れるわよ。まったく、社会人は良いわね。朝ご飯作ってもらって、 ゆっくり出勤なんてほんといい身分!」 漸く愚痴から解放され、追い出されるようにして、広子は家を出た。 七時を少し過ぎていたので、早足で駅に向かう。 まだ週半ばというのに、いっそ道に寝転がってしまいたいくらい体が重い。 職場と家を往復するだけで、運動らしい運動はしていない。 職場に着けば後はほとんど席を立つこともなく、ひたすら客の応対と パソコンとの睨めっこ。 そんな生活を続けているせいか、年々体力は衰える一方だ。 空は嫌になるほど晴れているのに、町は不思議と灰色に淀んでいる。 そこに人生の二文字が浮かんで見えた。 年を追うごとに毎日に退屈していく。 小学校くらいまでは、もっといつもドキドキしていた。 まだ知らない何かが自分を待っている。 そう無邪気に信じる事ができたからだ。 今は違う。日々はただの繰り返しでしかない。 決まった電車に揺られ、毎日同じ場所で働いて。 どこを切り取っても代わり映えのしない一週間を、一か月を、 一年を消化してやがて年を取って死ぬ。 時々そんな当たり前の人生が堪らなくなる。 考えていたら目頭が熱くなってきた。 忙しすぎて情緒が不安定なのかもしれない。 ふいに泣きたくなる時がある。 出来る事なら、全て放り出して逃げ出してしまいたい。 人生は平坦で退屈で、その割には苦しい事や嫌な事が多い。 どうして皆、こんな生活に耐えられるのだろう。 広子は白い朝日に炙られる車両を見渡した。 言葉を交わした事は無いが、メンバーはほとんど顔馴染だ。 無表情にスマートフォンの画面をみつめている若い会社員、 吊革につかまり目を閉じているスーツ姿の中年、 参考書に齧りついている学生、 会話が途切れれば世界が終るとばかりに喋り続ける女子高生。 それぞれバラバラだが、よく見るとみんな似たように疲れた顔をして 揺れに身を任せている。 誰かが一抜けたら、きっとこの茶番から喜んで降りるに違いない。 でも、誰も最初の一人になろうとはしない。 なんてつまらないだろう。 人生なんて実のところ何の意味も無いのかもしれない。 そんなことをぼんやり考えながら、 機械のアナウンスと共に電車から吐き出される。 ありきたりな中にも小さな喜びを見つけて日々をこなしていく。 それが人生であり、幸せなのだ。 そう割り切っているつもりでも、時々たまらなくなる。 今日はどうやら駄目な日らしい。 足がどんどんと重くなり、何度も立ち止まりそうになった。 オフィス街に向かう人の群れから離れて、脇道に入る。 古びたアパートの周りをぐるりと回るこの道は、遠回りになるが静かだ。 生活用水の流れる小さな川に沿って、ひしめくように並ぶ昔からの住宅 の後ろ姿を見ながら、柔らかい舗装路を歩く。 鮮やかな色の蔦に覆われた建物の壁面から、 賑やかな雀の鳴き声が聞こえてくる。立ち止まると、 泡の浮いたどぶ川で、セキレイが二匹水浴びをしていた。 黒く光る瓦の上では烏がカンカンと音を立てて跳ね、 一本道の向こうでは太った三毛猫が伸びをしている。 動物は良い。見ているだけで和む。 思わず頬を緩めつつ、時計を気にして歩き出す。 時間に追われる生活など、やめてしまいたいといつも思う。 大通りへ出ると、広子の勤める扇田商事は、もうすぐそこだ。 とたんに疲れと憂鬱が押し寄せ、またしても訳もなく 泣きたい気持ちが込み上げてくる。 広子は立ち止まって、低い屋根の向こうに広がる空を見上げた。 日常に窒息しそうになった時――そんな時は決まって探す。 何処までも青い空に浮かぶ、白い昼間の月を。 それは広子にとって小さな希望だった。 荒れた地表を無様にさらす白くぼやけた月を見ていると、 灰色のコンクリートに囲まれた窮屈な日本なんかじゃない、 神秘的な宇宙に浮かぶ一つの青い惑星の中に自分たちは生きているのだと、 そんな風に思えて、救われた気持ちになる。 リセットは成功したらしい。少しだけ胸が軽くなった。 今日も何とか無事に職場へ行けそうだ。 時々、そんなにしんどいのなら、仮病でもいいから一日くらい仕事を 休めばいいのかもしれないと思う事もある。 だが、一度でもサボれば二度と仕事に行けない気がして怖い。  普通に働くだけでこんなに難儀するのは、自分くらいだろう。 こんなことで、この先の人生をこなしていけるか不安で仕方がない。
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